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「そこに愛はあるか」ガラテヤ5:2-15

キリスト教は聖書(旧約39巻・新約27巻)を聖典として大切にしています。そしてそこにはとても多くの言葉、多くの戒めが記されています。クリスチャンがこの聖書の言葉を大切にする、と聞くと決まりごとにガチガチに縛られ窮屈そうに思う人もいるかも知れません。クリスチャンはこの聖書のすべての言葉、すべての戒めを大切にしなければならないのでしょうか。

聖書の中に「ガラテヤの信徒への手紙」というところがあります。ここにはガラテヤという場所にある教会に、正に「戒めの全てを守らねばならない」とする人々が現れて混乱する教会の姿と、そんな教会に対しての思いを伝える伝道者パウロの言葉が記されています。この「戒めの全てを守らねばならない」とする人々は言います、「ユダヤ人のように律法を守り、割礼も受けなさい」(「割礼」というのはユダヤ人(ユダヤ教徒)が生まれた時に施されるものです。彼らは旧約聖書の言葉の全てを守る人々です)。それに対してパウロは「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(5章3節)と言います。このパウロの言葉を別の言い方をすると「あなたがたはユダヤ教徒(ユダヤ人)になったのではなく、クリスチャン(イエスを救い主と信じる人々)になったのだから律法の全てを守る必要はないのだ」ということです。

けれども、そうなると「聖書は聖典」という意味が無くなってしまいそうです。しかしパウロは「律法全体(律法の全て)」を守らなくても良い、と言っただけで「何も」守らなくて良い、と言った訳ではありません。パウロは言います、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(5章14節)。これはつまり「聖書のエッセンスは『愛する』って事だよ」という意味です。

この愛というエッセンスで照らしながら改めて聖書を読む時、私たちが大事にする言葉や戒めが浮かび上がって来るはずです。私たちが大切にしなければならないのは、そういう聖書の言葉、そういう戒めです。そこに愛はあるか、それが聖書を読む時のポイントです。(牧師:田中伊策)

「そこに愛はあるか」ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節

「足跡を見ながら」 ガラテヤ5:22-23

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」。(ガラテヤ5:22-23)

「一緒」という事を嬉しく思える、そんな時は神様が私達の心に教えて下さっている時です。その声は聞こえないけれど、神様が心に語りかけてくれる。その聞こえない声が聖霊です。それはまるで風のようです。風は目に見えません。でも、風が吹いていたら誰に言われなくても分かります。

頬に風が当たる時、木が揺れている時、「あっ、風が吹いている」って分かるはずです。同じように、神様は見えないけれど、私達が「イエス様は私達の真ん中に一緒におられる」「神様は私達を愛して下さっている」、そう思える時、感じる時、神様が私達の心に話してくれているのです。見えないけれど心に風が当たるように、神様が教えてくれているのです。そんな時に、私達は嬉しい気持ちになり、一緒である事や仲よくする事を大切にしようと努め、誠実であろうとします。それが「霊の結ぶ実」です。

私達の毎日を時々、振り返って見ましょう。一人一人、そして教会がこれまで歩んできた足跡には何があったでしょう。そこに「愛」とか「喜び」とか「親切」とか「誠実」を見つける事が出来たなら、私達が神様につながって来た証拠です。そうではなく、「よくばり」や「自分勝手」や「羨ましい気持ち」や「仲間外れ」や「争い」があったのなら、私達は神様から遠ざかり、神様を悲しませて来たのだと思います。そして、こんな私達の心を許して下さるためにイエス様は十字架にかかって下さった事を思い出しましょう。

そして、今日からは、またしっかりつながって歩んで行きたいと思います。一人ではなく一緒に。そして毎日、足跡を振り返りながら進みましょう。そこに「霊の結ぶ実」を見つけながら歩むことが出来るように歩みたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「足跡を見ながら」 ガラテヤの信徒への5章22-23節

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」 ガラテヤ4:19-20

「わたしの子供たち」という言葉から、パウロが自分の子供を愛する母親か、父親のようにガラテヤの教会の人たちを大切に思っている気持ちが現れています。むしろこれは母親でしょうね。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますから。

ある夫婦にお会いしました。その夫婦は今、赤ちゃんが授かろうとしています。女性のお腹には双子の赤ちゃんがいます。その赤ちゃんの超音波の写真を見せて頂き、「ここが目で、ここが鼻」と教えて頂きました。一人の赤ん坊は指をしゃぶっていました。女性は事あるごとにお腹をさすっていました。しっかり形作られるようにしっかり育つように、優しく優しくさすっていました。パウロもそんな気持ちだったのでしょう。教会の場合、形作られてゆくのはキリストです。私達の主キリストが形作られてゆくのが教会です。人間の正しさで救われるのならキリストは必要ありません。にもかかわらず、その正しさを答えとする時、教会はその度にキリストを傷つけ、その度に十字架につけることになるのです。パウロはその苦しみを産みの苦しみに重ねています。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。そして、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」とパウロは語ります。「語調を変えて」というのは母親が子どもを優しく諭してゆくように愛を持って、ということでしょう。「そうしたい。でも、今は違う場所にいる。それが辛い」というのです。そして、この苦しみは、キリストの苦しみです。

私達は人です。だからどうしたって正しくはあり得ません。まずはそれを認めそこに立つことです。その時に私達の真ん中にキリストの十字架が立ち、教会は教会となるのです。そこから教会はキリストの苦しみを、私達の苦しみとしてゆく事が求められています。そして教会の真ん中におられるキリストがどう語っておられるか、どのように指し示しておられるか、その事をキリストの身体として表す努力をしてゆく必要があります。それはある意味、途方に暮れるような作業かもしれません。しかし、その途上で教会は成長しています。(牧師:田中伊策)

「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」 ガラテヤの信徒への手紙4章19-20節

「お友達になってください」 ガラテヤ4:13-14

伝道者パウロは多くの国でイエス・キリストを伝え、その働きを通して多くの教会が誕生しています。また、パウロはその教会に対して多くの手紙を書いています。その手紙は聖書に記されているほどです。非常に熱く力強く圧倒されるような迫力で人を引き付けるように福音を語っていった、そういうイメージがあります。

しかしパウロの印象について次のようにいう人々もいました、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で話もつまらない」(第二コリント10:10)。多分、そのイメージは正しかったのだろうと思います。何故ならパウロには何らかの持病があったと言われているからです。聖書には「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(第一コリント2:3)、「わたしの身に一つのとげが与えられ(中略)離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました」(第二コリント12:7)、「わたしは、体が弱くなった」(ガラテヤ4:13)とあります。私達は身体が痛む時、心も弱くなるものです。そしてパウロもそうだったようです。

特にガラテヤの地方に行った時には非常に悪い状態だったようです。しかし、パウロはこう言います、「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」。体が弱くなったことで福音(イエス・キリスト)を分かち合う事が出来たとはどういうことでしょう。

この時ガラテヤの人々はこの弱々しいパウロを受け入れ、労わったと書かれています。つまり、パウロは助けるはずが助けられ、救うはずが救われた。そして、もしかしたらパウロの旅はその繰り返しだったのではないでしょうか。それは言い換えると友を探す旅。自分の弱さを相手に晒し、悲しみの涙を見せ、助けを求める事の出来る交わりを作ろうとしたのではないでしょうか。

クリスマスの出来事はイエス・キリストの誕生の物語です。命の誕生は助け手を求め泣く事から始まります。助け助けられる友との出会いから福音は始まってゆくのです。 (牧師:田中伊策)

「お友達になってください」 ガラテヤの信徒への手紙4章13-14節

「共にあって自由」 ガラテヤ5:13-15

言葉の意味を知ろうとするときに、その反対の言葉を思い浮かべるとイメージがつかめてくることがよくあります。例えば「平和」。「平和の反対は?」と聞かれて真っ先に思い浮かべるのは「戦争」でしょう。でも「不安」とか「空腹」とか「孤独」とかいろいろ思い浮かべる事も出来ます。そこから平和をもう一度考えると「安心」とか「満腹」「食べる物に困らない」とか「一緒」とか平和の意味も広がって来るし、イメージもしやすくなります。

では「自由」の反対は何でしょう?「束縛」とか「支配」、辞書には他に「統制」という言葉が出てきました。やはり自由というのは「束縛されない」という意味が強いようです。しかし、それだけではありません。この「自由」という言葉がその中身を既に表しています。「自らを由(よし)とする」(「由」とは「理由」とか「方法」とか「拠り所」)、つまり「他の人や物に流されたり支配されたりせずに自分を拠り所とする」という意味です(自由という言葉は福沢諭吉が英語のfreeを訳す時に自分で作った言葉だと言われています)。

けれども、その意味から聖書の中にある「自由」という言葉を考えると迷ってしまいます。何故なら聖書には次のようにあるからです。「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)。「仕える」という言葉は原文から直訳すると「奴隷の立場となる」という意味です。自由なのに奴隷となる?変ですねぇ。

ここで一番大切なのは何から解放されるか、ということかもしれません。物でしょうか?他の人でしょうか?いえ、むしろ自分なのではないでしょうか?この聖書の言葉には「肉」と書かれています。この肉とは、豚肉とか鶏肉ということではなくて、自分の知識、自分の努力、自分の肉体、それら含めて自分自身を「肉」としているのです。つまり「自らを由とする」時にこそ、最も自由を失っている状態なのです。自分の正しさや判断により頼むのは愚かな事です。神は私達と共に生きるためにイエス・キリストを与えて下さいました。そして、私達にもまた「共に生きる」ように「互いに仕える」ようにと促されます。そこでこそ私達は本当の意味で生きることが出来るからです。一人では生きられない人間が「自分を由とする」なんて愚かな事です。本当の自由は自分から解放される事です。「自分」の中にではなく「共に」の中に自由はあるのです。 (牧師:田中伊策)

「共にあって自由」 ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節