タグ別アーカイブ: フィリピ

ファミリーサンデー特別礼拝 フィリピ2:1-4

フィリピの信徒への手紙は、パウロという人がフィリピという町の教会の人たちに送った手紙です。この手紙は時々、別の名前で呼ばれる事があります。それは「喜びの手紙」です。嬉しい気持ちがいっぱい溢れた手紙だからです。そう聞くとパウロさんにどんな良い事があったのだろうと思うのですが、パウロはこの手紙を書いた時、牢屋に入れられていたのです。

友達に会う事も出来ないし、家族にも会えない、自分で買い物にも行けない、教会にも行けません。でも、そんな何もできない中で、僕に今出来る事、他の人の応援をしよう、って思ったのでしょう。しかし、その時にパウロは大切な、でも当たり前の事に気づきます、「僕も今まで、たくさんの人に助けてもらって、支えてもらって、祈ってもらって、イエス様を伝えるお仕事が出来たんだ。僕の方が助けてもらっていたんだ。そしてイエス様はそのお手本になってくれたんだ。慰めたり、励ましたり、一緒に悲しんだり。あなたがたもそうしなさい、って教えてくれたんだ」。パウロさんはこれまで出て行ってたくさんの人の中でイエス様のお話をみんなにしていたけれど、それが出来なくなった時に、助ける事、誰かの役に立つ事の大切さ、そしてイエス様がそうしてくれたことを思って嬉しくなったのだと思います。

「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」とパウロは言います。「今、僕は何もできない。でも、他の人の気持ちに合わせて一緒に生きようとしてくれたら、僕は嬉しい」。

何もできないからこそとても大切な事に気づいたのです。だからこの手紙は喜びの手紙なのです。イエス様は神の子なのに、出来ない傍らに来てくれた。そして今、何もできない私と一緒にいてくれる。その喜びでもあります。 (牧師:田中伊策)

ファミリーサンデー特別礼拝 フィリピの信徒への手紙2章1-4節

「不完全な私のままで」 フィリピ3:12-16

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)

上記の言葉は伝道パウロの言葉です。しかし、捕らえられているから捕らえようと努めている、とは何だかよく分からない言葉です。でも、この「捕らえられている」という言葉を「愛されている」と言い換えてみるとその意味がよく分かって来ます。つまり「愛されているから愛そうと努めている」という意味です。そして「努めている」という言葉の中に、パウロの、そして人間の限界を感じます。「愛そうと頑張っているんだけどなかなか難しい」「分かっているんだけれど、それを行うって難しいね」って感じでしょうか。最初の言葉である「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」という言葉もそういう意味でしょう。「私は何て不完全な人間、私は何て愛から遠い人間なんだ」と心底思っているのです。

でも自分が不完全な人間であることを思えば思う程、この自分を愛して下さった神様の愛の大きさを知るのです。そして自分が愛から遠い存在であればある程、イエス・キリストがどれだけの隔てを越えて来て下さったかを知り十字架の重さを知るのです。そしてそれが従う力、愛する原動力になるのです。「愛されているから愛そうと努めている」のです。

今日は神学校で学ぶ神学生を覚える礼拝を捧げています。神学校で学んでおられる方々も同じです。彼等・彼女等は「この小さな自分を愛して下さった神様の愛に捕らえられた」のです。神学生の献身もまた愛されているから愛する、捕らえて下さったから不完全な自分のままで捕らえようとする、そんな事柄なのだと思います。その学び、その働きが進められる先に神様の大きな愛が表されてゆく事を願い、祈り支えていきましょう。(牧師:田中伊策)

「不完全な私のままで」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節

「不完全な私のままで」 フィリピ3:12-16

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)

上記の言葉は伝道パウロの言葉です。しかし、捕らえられているから捕らえようと努めている、とは何だかよく分からない言葉です。でも、この「捕らえられている」という言葉を「愛されている」と言い換えてみるとその意味がよく分かって来ます。つまり「愛されているから愛そうと努めている」という意味です。そして「努めている」という言葉の中に、パウロの、そして人間の限界を感じます。「愛そうと頑張っているんだけどなかなか難しい」「分かっているんだけれど、それを行うって難しいね」って感じでしょうか。最初の言葉である「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」という言葉もそういう意味でしょう。「私は何て不完全な人間、私は何て愛から遠い人間なんだ」と心底思っているのです。

でも自分が不完全な人間であることを思えば思う程、この自分を愛して下さった神様の愛の大きさを知るのです。そして自分が愛から遠い存在であればある程、イエス・キリストがどれだけの隔てを越えて来て下さったかを知り十字架の重さを知るのです。そしてそれが従う力、愛する原動力になるのです。「愛されているから愛そうと努めている」のです。

今日は神学校で学ぶ神学生を覚える礼拝を捧げています。神学校で学んでおられる方々も同じです。彼等・彼女等は「この小さな自分を愛して下さった神様の愛に捕らえられた」のです。神学生の献身もまた愛されているから愛する、捕らえて下さったから不完全な自分のままで捕らえようとする、そんな事柄なのだと思います。その学び、その働きが進められる先に神様の大きな愛が表されてゆく事を願い、祈り支えていきましょう。(牧師:田中伊策)

「不完全な私のままで」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節

「新しいあなたと出会いたい」 フィリピ3:12-16

キリスト教の最初期において最も有名な人物として二人の名前を挙げる事が出来ると思います。一人はイエスの十二弟子の一人シモン・ペトロ。彼はイエス様からペトロ(岩)という名前を与えられ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われた人物であり、実際にイスラエルにおけるキリスト教会の中心的人物でした。

もう一人はパウロ。彼は熱心なユダヤ教徒でありましたが回心し、多くの国に行ってイエス・キリストを伝え、異邦人教会の設立に携わりました。キリスト教がイスラエル地方の枠を大きく越えて世界に広がった理由の一つとしてパウロの働きがあったからです。

この多くの国でイエス・キリストを伝えたパウロが、フィリピという地方の教会に宛てた手紙の中で次のように言っています、『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません』(12節)。あのパウロが「私は分かった訳ではないし、行いも十分じゃありません」と言っているのです。ビックリします。でも、同時に慰められもします。「そうか、あのパウロでさえ、イエス様について『分かった!』という訳でも、自分の行いについても『もう大丈夫!』と言える訳でもないのか」と思えるからです。

けれども、その慰めが「じゃあ、私なんか分からないはずだよな。これでいいか!」という諦めに変わってしまいそうになるのが私達です。そんな私達の目を覚ます言葉が、このパウロの言葉の続きです。『何とかして捕らえようと努めているのです。自分がイエス・キリストに捕らえられているからです』(同節)。「捕らえられている」とは私達はもうキリストの愛に包まれている、ということです。私達は皆、クリスチャンであろうがなかろうが、イエス様の十字架によって赦されているのです。パウロはその恵みが先にある事を知ったから、もっと深く知りたい、もっと実感したい、と努めるのです。もっと深く知りたい、それは「イエス様、新しいあなたと出会いたいのです」という姿であり、同時に信仰者の歩むべき道です。

信仰者の歩みは生きる限り道半ばです。しかし、その道でこそ新しいイエス様と出会うことが出来るのです。 その出会いによって私達は日々新しくされるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「新しいあなたと出会いたい」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節