タグ別アーカイブ: ルカ

「御言葉には力がある」ルカ24:28-35

ルカによる福音書24章13-35節には十二弟子ではない二人の弟子たちの物語が記されています。二人の内の一人はクレオパ、ここでしか出て来ません。もう一人は名前すら出て来ません。

二人の弟子はイエス様が捕まって、十字架にかかって、そして死なれた事で心の目が閉じてしまいました。しかし、その二人にイエスは寄り添い、聖書にはそれこそがメシアの姿だと書かれていると告げ、聖書全体から説き明かす、夕暮れ時になり一緒に食事の席に着いた時、イエスがパンを取り、讃美の祈りをし、パンを裂いて渡そうとした時、二人は初めてイエスだと気づいた、けれどもその時にイエスの姿が見えなくなります。そして「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言って他の弟子たちのところに向かうという、出来事です。

こんな大きな出来事が十二弟子以外の名もない弟子達に起こった事そのものが私たちへのメッセージなのだと思います。私たちはイエスを見たことがありません。だからイエス様の事は聖書からしか知ることが出来ません。しかしその聖書の言葉、御言葉を、私達一人ひとりの与えられた神様からのお手紙として読む時に、私たちはイエス様と出会うことが出来ます。二人の弟子は「聖書のお話をしてもらった時、私たちの心は熱くなって燃えているようだったよね」と語ります。まだ、話をしているのがイエスと気づく前に既に彼らの心は熱くなった嬉しくなっています。その後にイエス様に気づいたのです。御言葉には私たちの心を熱くする力があるのです。

きっと今週も、きっと新しい年にも困難はやって来るでしょう。悩みもやって来るでしょう。悲しみもやって来るでしょう。しかし、御言葉には力があります。二人の弟子達の歩みに寄り添い、語り掛けて下さったイエス様は、私たちの歩みにも寄り添い、語り掛けて下さっています。御言葉によって力を得、何度でも新しく、歩み出しましょう。(牧師:田中伊策)

「御言葉には力がある」ルカによる福音書24章28-35節

「かみさまのいうとおり」 ルカ10:38-42

有名なマルタとマリアのお話です。

イエス様をもてなそうとしていたマルタでしたが、イエス様の足元でイエス様のお話を聞いていたマリアを見て、マルタはイエス様に言います、「何ともお思いになりませんか?」。ここにはマルタの「私を手伝うことが正しい事」という思いと「それをイエス様は促すべきだ」という思いがあります。言い換えると「マリアが話を聞くままにさせ、マリアを手伝うように促さないイエス様は間違っている」と彼女は思っているのです。そしてイエス様を「わたしのいうとおり」にさせようとしています。でも、従うとか仕えるとかいうことは「かみさまのいうとおり」にすることです。純粋な「仕える思い」と「忙しさ」、「マリアへの思い」「イエス様への不信感」そのような様々な思いを持ったマルタにイエス様は「多くの事に思い悩み、心を乱している」と諭されるのです。

たくさんの箱を持とうとしたら前が見えなくなります。横しか見えなくなります。きっとね、マルタは最初「イエス様のために」という一つの箱だけ持っていたのです。その時はイエス様がちゃんと見えました。でも、忙しい、大変だ、寂しい、マリアったら、って箱を重ねて持ってちゃんとイエス様が見えなくなっちゃったのです。

でも、それをイエス様はちゃんと分かっています。だからイエス様はマルタさんに「マリアが持っている箱は一つだけ。だからちゃんと私を見ている。マルタさん、その重ねた箱を下ろしてごらん。そして最初に持ち上げた箱だけ大事になさい。大丈夫だよ。私はあなたの心をちゃんと知っている。あなたの尊い私への気持ちは届いているよ」って言っておられます。イエス様は「私の前のその荷物を下ろしなさい。そしてしっかり私を見なさい」そう言っておられます。(牧師:田中伊策)

「かみさまのいうとおり」 ルカによる福音書10章38-42節

「お客様は神様です」ルカに5:27-32

イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国という大国の植民地にとなっておりました。大国が植民地を持つ旨味、それはそこからさまざまなものを搾取して自分の国を財政的人材的知識的に富ませるためです。無理な徴税もその一つです。

徴税人レビはそんなことを仕事としていました。多分、その道を通る者から通行税を徴収していたと思われます。さらにその税金の金額は徴税人が決めて良いことになっておりましたから、このレビはローマに納税するよりも多くのお金を徴収していたと思われます。イエスはそんな彼が徴税所にいるのを見て「わたしに従いなさい」(27節)と言います。そして聖書には「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。何でこんなに簡単に従えたかというと、この徴税人という仕事はお金は入りますが、同胞から「ローマに魂を売り渡した者」「罪人」「裏切者」扱いをされていたからです。様々なものを手に入れても、心にはポッカリ穴が空いていた、そんな状態だったからこのイエス様の言葉が響いたのではないでしょうか。

ただ、この「何もかも捨てて」という言葉は原文(ギリシア語)からの直訳では「一切を残し」とあります。今まで握っていたお金、仕事、地位、そういうものを一端自分の手から離し、イエスに従ったという事であり、お金や仕事を本当に捨てた、ということではなかったでしょう。何故なら、彼はイエス様のために自分の家で盛大な宴会を催すからです(29節)。

ここにはレビの大きな変化があります。人から蔑まれながらも「自分のために」生きて来た彼が「イエス様のために」生きるため、他の徴税人も招いて一緒に生きようとしているからです。それは自分の思った通りに自分の思う方向にハンドルを切っていたドライバーが、客を乗せて客の言う方向、言う所に向かうタクシーの運転手に変わるようなものです。客が「そこ右に曲がって」と言われたら右に曲がるように、信仰も同じでイエス様が新しい道を進もうと促すその道へハンドルを切る生き方が信じて生きるということです。これってイエス様をお客様として載せている運転手みたいなものです。 (牧師:田中伊策)

「お客様は神様です」ルカによる福音書5章27-32節

「赤ちゃんイエスの力を受けて -新しい年の歩みのために-」ルカ2:8~12

今日1月6日は「公現日」、東方の博士たちが幼子イエスを拝した日=ユダヤ人以外の人々にイエスがお姿を現された(顕現)日として大切にされています。イエスさまのお誕生を伝えるマタイもルカも赤ちゃんイエスさまが生まれたとたんに何かを話したとか、生まれつき特別な力を持っていたということは伝えていません。

自分では食べることも飲むこともできない赤ちゃん。けれども、赤ちゃんには確かに力があります。大人たちは小さく弱い存在に対して、言葉を替え、笑顔を向けて、その必要を何とか聞き取ろうと耳を、頭を働かせ、想像をめぐらせてあれこれ働きかけます。「自己責任だ」と他者と距離を置く、自分の利にならない面倒をかける相手との関わりを切り捨てる考え方とは全く逆の、損得勘定をぬきに小さな命を守ろう!大切にしようという価値観・行動への逆転を起こす、教える力をもっています。そしてもうひとつ、私自身のいのちの始まり、歩みに思いを至らせ、周囲の人々の守り、支えの大きさ、力を再確認させてくれる力を持っています。

イエスさまはすでに出来上がった大人として来られたのでなく、赤ちゃんの姿で来て下さいました。病気をいやすことも、たとえ話の一つもできません。けれども赤ちゃんだからこそのメッセージを発しておられ、そのメッセージが2019年を歩みだそうとしている私たちに必要だと思わされています。

外国人労働者の受け入れ拡大、経済的な格差の放置、家庭での虐待や育児放棄の中に過ごしている子どもたち-社会が大きく変わろうとしているこの年の初めに、どのような関わり、交わりを創めましょうか?多くの人々の目と手、言葉を通して与えられた神さまの恵みの中で育てられ生かされてきた私であることを振り返りつつ、与えられてきた恵みを、小さくされている人々への思い、行いの中で分かち合いながら、歩む者へ。私たちの価値観・生き方を神さまを基として立て直す年に。そのように心から願います。(協力牧師:坂東資朗)

「赤ちゃんイエスの力を受けて -新しい年の歩みのために-」ルカによる福音書2章8~12節



「マルタとマリアの信仰」ルカ10:41-42,ヨハネ11:17-27

2018年も明日をもって終わります。12月は、何かと慌ただしい時でもあります。聖書の中で、「忙しい女性」といえば、マルタが、まず浮かんでくるのではないでしょうか。マルタとマリアの姉妹の二つの物語は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。

 ルカによる福音書(10:38~42)では、イエス様をもてなすために、一所懸命に食事の準備をするマルタに対して、マリアは、イエス様の足もとに座って、話しを聞き入っています。マルタは、イエス様にマリアに手伝うようにとお願いします。それに対して、イエス様は、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とマルタを諭します。

 ヨハネによる福音書(11:1~37)では、ラザロが亡くなった後に来られたイエス様を迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と文句を言います。しかし、続けて「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とイエス様からの慰めがあることへの期待と願いを込めます。そして、イエス様から、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」の問いかけに、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰告白します。一方、マリアは、イエス様に会うと、マルタと同じ言葉で、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と文句をいって、後は、一緒にいた人達と泣くばかりです。

 この二つの物語から私たちは、マルタとマリアの姉妹をどう見たらよいのでしょうか。マリアは、何よりもまず、イエス様の御言葉を聞こうするとする人です。信仰者として大切な姿勢であることは間違いありません。一方マルタは、イエス様を信頼し、この世の煩いに積極的に立ち向かう人です。そして、いつもイエス様を迎えいれ、仕えているのです。

私は、マルタのように、イエス様を積極的に迎え入れてこそ、神様との生き生きとした対話ができるのだということに気づかされました。そして、イエス様に仕えるように、小さい人々にも積極的に仕えていくことが必要なのだと。イエス様は、私たちに大事な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」と示されました。イエス様は、常に自分を迎え、仕え、対話をするマルタと、イエス様の話を何よりも聴こうとするマリアを愛されたのです。私たちもこの姉妹のように、イエス様の御言葉を聞き、迎え入れ、仕えていこうではありませんか。アーメン
(篠田裕俊)

「マルタとマリアの信仰」
ルカによる福音書10章41~42節
ヨハネによる福音書11章17~27節

「春にして君を想う」ルカ3:1-6

二月になると、あちらこちらで蕾の綻んできた梅の花を見かけるようになります。寒空の下で可憐に咲く梅の花のいじらしさに、心惹かれる人も少なくないでしょう。私もその一人であります。永い冬の寒い日々に飽き飽きしてくるこの季節の中で、梅の花が咲き始めるのを見ますとき、もう春も近いのだな、と感じます。梅の花は私たちに、冬の終わり、春の近きを教えてくれます。

私は梅の花を見る度に、毎年、洗礼者ヨハネのことを思い出します。ヨハネは人々に、神の御国が間もなく訪れること、神の御子イエス・キリストが間もなくやって来られることを告げ知らせました。神の御国、神の御子がもう近くまで来ている、と。神の御子をお迎えし、神の御国の到来に備えるために、罪を悔い改め、バプテスマを受けることを人々に語り伝えたのでありました。それはまるで、冬の終わり、春の近きを告げ知らせる梅の花のようだと、私はいつも想うのであります。そして、神の国、神の御子イエス・キリストの到来は、花盛りの春の訪れのように感ぜられるのです。

春は命の季節、復活の季節であります。今まで、永い冬の寒さを耐え忍んできた生き物たちが、春の訪れと共に目覚め、芽吹き、その蕾を綻ばせ、花開きます。冬には枯れているように見えた木々もまた、再び若葉の爽やかな緑を取り戻し、生き生きとした姿を見せてくれるようになります。苦しみの中にある人たち、悲しみの中にある人たち、孤独の中にある人たち—永い冬を耐え忍んできたすべての人たちにとって、イエス・キリストの到来は、冬の終わり、春の訪れを意味しています。イエスは冬を耐え忍んできた人たちのかじかんだ手を温め、ほぐし、永遠に共に居てくださることを約束してくださっています。

どうか、寒い冬のように心細く、頼りない想いで日々を過ごしておられる方々の上に、春の如きイエスの温かな愛が訪れ、その心の雪を溶かしてくださいますように。アーメン。(香月太郎神学生)

「春にして君を想う」ルカによる福音書3章1-6節

「鶏が告げる朝」ルカ22:54-62

「クリスマスが終わったら正月」これは毎年のことなのですが、今年は本当にそうですね。12月24日が土曜日、12月25日が日曜日、1月1日も日曜日。教会関係の人はみんな言っています、「今年は日程が悪い」。でも、それは非常に疲れるという意味であって、本当はとても良い日程だと思います。何故ならクリスマスの日に礼拝が出来て、新しい年の始まりも礼拝が出来るからです。

聖書の箴言19章21節には「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」とあります。口語訳という訳では「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」とあり、私はこの訳が好きです。

「こうなったらいいな、こういう年にしたいな」と私たちはいろんな計画や理想を描きます。それはそれで大事です。目標とか希望とかを持って進む方が良い。でも、なかなか、願った通り、思った通りにいかないものです。それは神様を信じていてもそうです。

教会の歩み、幼稚園の歩みを振り返ってもそうだったと思いますし、個人や家族、学校や職場での歩みもそうでしょう。なかなかうまくゆかない。そして、そういう時にこそ、私たちの信仰が問われます。そしてこの「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」という言葉は響いてきます。

この一年の始めに、いつ帰ってきても良い場所、いつも「おいで」と言ってくれる場所、日曜日のこの時間に来たら誰かいてくれる場所、そして神様を礼拝する場所で私たちは共に私たちの歩みの基、生活の土台を確認して歩み出したいと思います。

(牧師・田中伊策)

「鶏が告げる朝」ルカによる福音書22章54-62節

「人が人となるために」ルカ2:14

高校生の時の事。私は高校から親元を離れて寮生活をしていました。中学時代に勉強する習慣がなかったので、高校に入っても決められた勉強時間にはマンガを読んだり居眠りしたりしていました。そして1学期の試験、当然のように散々な成績でした。それでもあまり気にしないでいたら、寮監から呼ばれて「田中、お前は寮で一番成績が悪いぞ。恥ずかしくないのか。一番下なんだから、あとは上にいくしかない。がんばれ!」って言われてしまいました。

別に恥ずかしくありませんでしたし、焦る事もありませんでした。でも、寮監に対して「そんな言い方しなくてもいいじゃないか!」って反発からガムシャラに勉強するようになりました。毎日毎日、一生懸命勉強しました。すると2学期、ぐーんと成績が伸びました。結果が出るとやはり嬉しい。それでまた頑張る、するとまた上がる。最初が悪かったので結構とんとん拍子で上がってゆきました。

いつの間にか「もう落ちたくない」と思い勉強していました。成績の事ばかり考えて、睡眠時間を削って勉強しました。けれども無理したせいで体調を崩してドクターストップ。「勉強しないと追い越される、落ちる」そんな思いで何日も布団の中におりました。

そんな時、一つの聖句を見つけました、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのにどんな代価を支払えようか』(マタイ16:20)。この言葉を読んで、自分が上ばかり見て自分も周りも見えていなかった事に気づきました。そして、スーッと心が楽になったのを覚えています。

今日はクリスマス。神の子は家畜小屋の飼い葉桶の中。世の低みの極みに生まれました。神はその赤ん坊を通して上ばかり見て周りも自分も見えなくなっている私たちの視線を上から下に向けさせます。そして「お前は人なんだ。お前はここで生きよ。私も一緒に歩もう」と、語り掛けています。神を神とすることによって、人が人となるのです。『人の子は仕えられるためではなく仕えるために…』(マルコ10:45)。私たちもそのように。 (牧師・田中伊策)

「人が人となるために」ルカによる福音書2章14節

「平和の誕生」ルカ2:10-12

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」(ルカによる福音書2章10-12節)

イエスの誕生についてルカによる福音書では、野宿しながら羊の群れの番をしていた羊飼いに救い主の降誕の知らせが届きます。どうして羊飼いに知らされたのでしょうか。

その答えは天使の言葉の中にあります。天使は「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言っていますが、この言葉は口語訳聖書では「すべての民に与えられる大きな喜び」となっています。「すべて」というのは「一人残らず」ということです。一人でもこぼれていたら、一人でも除外されていたら「すべて」にはなりません。

つまり、羊飼いは社会において除外されていた、人の数に入れられない階層の人々だったということです。だから羊飼いのところにこのメッセージが届いたのです。「この社会は生まれた場所や話す言葉、皮膚の色や食べる物、知っている事や出来る事、仕事や行った学校、そんな違いで分けて仲間はずれをするけれど、神様は違うよ。一人として神様の愛から漏れることはない。だからあなたがたのところに来た。あなたのために救い主は生まれたのだよ」って。

「一人として神様の愛から漏れることはない」。その「一人として」を「この私が」と思えた時に救いは訪れます。そして、そこから新しい喜びの歩みが始まります。それは、私も仲間はずれをしない、敵を作らない、そういう生き方です。しかしそれはとても難しい事です。でも、それで良いのです。「愛するって難しいなぁ」と思ったらその度に「神様の愛は大きいなぁ」って気づくのですから。そしてまたそこからスタートです。(牧師・田中伊策)

「平和の誕生」ルカによる福音書2章10-12節

「イエスさまが君を呼んでるよ」ルカ5:1―11

イエスがペトロを召すシーンです。プロの漁師が一晩中やっても“ぼうず”だったのに、イエスの指示に従ったら大漁になったという不思議なおはなし。釣り好きな人は生き生きと読めるでしょう。僕はペトロの告白シーンがじ〜んときます。


大漁を目の当たりにしてペトロはひれ伏しました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」。どんな気持ちだったのでしょうか。大漁が判明したとき、ペトロは仲間に合図して助けを呼びました。大声ではなくサインを送ったのです。仲間以外には絶好のポイントを知られたくなかったのでしょう。

ペトロはこの瞬間、はたと自分の醜さを見たのではないでしょうか。ついさっきまで心は燃えていたのです。イエスの説教を一番近くで聞いて、「この人はみんなのことを心から大切に思ってくれている。俺もそうありたい!」と。なのに今、俺はどうだ。他の奴らに漁場を知られてたまるかと、自分のことに汲々としている…!私たちも同じではないでしょうか。み言葉に励まされ、優しい人間になろうと決意する。でも、何かあればとたんに自分のことに汲々としてしまう。何やってんだ、僕は…!

しかし感謝すべきは、その私たちこそをイエスは呼んでくださるということです。「恐れることはない。あなたは人間をとる漁師になる」と。「惨めで会わせる顔がないという君!無様さをさらけ出す君!その君だからこそ、誰かの傷を包み、心を解放させ得る人になれるんだ!」、そう呼びかけてくださいます。

このときペトロとイエスはアラム語で喋っていたと言われています。ペトロが言った「罪人」という言葉は、アラム語では「ペッカートル」。それを受けてイエスが応えた「漁師」という言葉は「ピスカートル」。似ていると思いませんか。ひょっとしたらイエスはユーモアでペトロに応答なさったのかもしれません。「そうか、君は罪人ペッカートルか。だったら恐れるな。わたしが人間を生け捕る漁師ピスカートルにしよう」。

ユーモアには覚悟が秘められているもの。イエスは覚悟なさったのです。「君の全部を、このわたしが引き受ける。大丈夫、そのままでついて来い」と。私たちが覚悟を決めて従うのではなく、イエスの覚悟(私たちのために十字架にかかるほどの!)が先だっています。このイエスに信頼してよいのです。先立つイエスの覚悟に支えられ、ペトロは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従いました。(溝上哲朗牧師・久留米荒木教会)

「イエスさまが君を呼んでるよ」ルカによる福音書5章1―11節