タグ別アーカイブ: 詩編

「アンネの仕事」を!-71年目の8.15を前に 詩篇37編37節

13歳の誕生日に、父から贈られた日記帳-そこには女子中学生アンネの学校での出来事や勉強のことが書き記されるはずでした…。しかし実際に書かれたのは、アドルフ・ヒトラー率いるナチスが実行した「ユダヤ人絶滅計画」の魔の手から逃れるため移り住んだオランダ、それも「隠れ家」で過ごした2年余りの日々の出来事でした。限られたスペースから一歩も外に出られず、窓から街ゆく人の姿をながめることも許されません。トイレの水の音にも神経を使い、限られた食料を分け合って食べる-しかも、家族だけでなく父の会社の同僚一家と「あとひとりならここに住まわせてあげる余地もある」と迎えた中年男性との計8人での共同生活!

この秋、西南学院中高で開催する「アンネ・フランク展」に備えて読んだ『アンネの日記』は、ただ「ユダヤ人である」というだけの理由で、あらゆる自由を奪われ、命を狙われ、息をひそめて過ごさざるを得なかった稀有な<二度と繰り返されることがあってはならない>人種差別・戦争の悲惨を現代に伝え、平和とはどのように生きることであるかを問いかける貴重な資料です。

明日は71回目の8.15-折しも過去最多205の国が参加しての「平和の祭典」(リオオリンピック)が行われ、テレビは連日、肌の色も話す言葉も異なる選手たちが同じフィールドに立って競い合う姿を伝えています。アンネには想像することもできなかった光景でしょう。戦争の悲惨を身をもって体験された人々の声を聞くことが難しい-かつての戦争は遠い過去の出来事となりましたが、多くの人々の生活・未来・生命を奪った「ヒトラーの思想」は消えたと言い得るのでしょうか?アンネたちが願い求めた「平和」は実現しているでしょうか?あの「隠れ家」で過ごした8人の中で唯一、強制収容所での死をまぬかれて生き延び、娘アンネが残した日記の出版を通して平和の実現のため働くことを「アンネの仕事」と呼び、後半生をささげたアンネの父オットー・フランクはこう語っています。

「平和は相互理解から生まれます。アンネたちの悲劇的な死に同情するだけではなく、平和を作り出すために、何かをする人になって下さい。」

聖書の語る「平和」(シャローム)は、単に戦争のない状態を意味するのではなく、“社会を構成する一人一人の人間性が尊重される状態”を指します。あの日記は、理不尽な時代状況の中、さらにストレス多き隠れ家での共同生活の中、平和に生きようと努めた少女アンネの姿を伝えています。“シャローム”を実現するために、私が、また教会に求められている「アンネの仕事」はどんなことでしょうか?
「平和な人には未来がある。」(詩編37:37)(協力牧師 坂東資朗)

「アンネの仕事」を!-71年目の8.15を前に 詩篇37編37節

「勝利の行進」 詩編68:25-28

かつて、M・L・キング牧師は仕事と自由を求めるワシントン行進(1963.8.28)において25万人の前で次のように演説をしました。

私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、兄弟愛のテーブルに仲良く座ることができるようになるという夢が。

私には夢がある。今、不正義と抑圧の炎熱に焼かれているミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変わるだろうという夢が。

私には夢がある。今は小さな私の四人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく、内なる人格で評価される国に住めるようになるという夢が。私には夢がある。

私には夢がある。悪意ある人種差別主義者や「介入」とか「無効化」という言葉で唇をぬらしている州知事がいるアラバマでさえ、いつの日か、幼い黒人の少年少女が、幼い白人の少年少女と手に手をとって姉妹兄弟となることができるという夢が。私には今日、夢がある。

私には夢がある。いつの日か、全ての谷は隆起し、丘や谷は低地となる。荒れ地は平らになり、歪んだ地も真っ直ぐになり、そして主の栄光が現れる。その光景を肉なる者が共に見るという夢である。 これがわれわれの希望なのだ。
(M・L・キング説教講演集「私には夢がある」新教出版社,2003年,P103-104)

まだ見ぬ自由と平等と平和に向かって25万人と共に行進したキング牧師は、キリストが進まれた道を進みます。信仰者の歩みは勝利の先取りです。キリストが先立ち、そして共におられることのうちにまだ来ぬ勝利を先に見るのです。私達一人一人の人生も、この社会の歩みも悩みの多いものです。しかし、その中を主は先だって歩まれるのです。その勝利の行進に私達も連なり平和の道を進みたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「勝利の行進」 詩編68編25-28節

「賛美するために創造された」 詩編102:18-19

詩編102編が書かれた時代、イスラエルは真っ暗な闇の中にありました。他の国と戦争をして負けて失ってしまったのです。争いによって多くの命が奪われ、財産は奪われ、生き残った者も奴隷となって尊厳も奪われ時代です。その状況をはっきり表しているのが7節「荒れ野のみみずく 廃墟のふくろうのようになった」です。私は暗闇の中で暮らすふくろうのようだ、というのです。自分をふくろうにみたてた一人のイスラエル人が、神の前に祈る祈り、それが詩編102編です。ですから、この詩編はイスラエルの中では伝統的に「苦しむ者が思いくずおれて、その嘆きを主の前に注ぎ出す時の祈り」という題がつけられています。

真っ暗になったのは、自分を誇ろうとしたから。自分で自分を輝かせようとしたから。富や武器で自分を飾ろうとしたから。でも、その光は偽りの光でした。その光は自分や他者の命を蝕み、削り、奪うものでした。その事に気づいた時には闇の中、18節にある通り「すべてを喪失した者」となったのです(別の訳では「裸の者」とありました)。

でも18節全体では「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした」とあります。握っている時、自分を飾っている時、自分で自分を輝かせようとする時には分からなかいけれども、失った、もしくは主の前に自分を裸にした中で祈る時に初めて気づく事、それは「主は(私を)顧みられていた」ということです。

月が輝くのは夜だけ、それも暗闇の中で日の光の当たる部分だけが輝きます。月の綺麗な模様は表面の凸凹のコントラストや隕石がぶつかった跡。日の光はそんな月の傷さえも綺麗な模様にして輝かせくれるのです。日の光を浴びた月だけが美しく輝く。それは喪失し裸になったイスラエルを包む神様の光、そしてその神様の光を浴びた者が主を賛美するのです。

「主を賛美するために民は創造された」。それは言い換えると「神によって創造された者(神は無いところから創り、小さいまま愛し、弱いまま生かして下さる事を知った者)が主を賛美する」ということです。 (牧師:田中伊策)

「賛美するために創造された」 詩編102編18-19節

「一歩先も照らされている」 詩編119:105

「真っ暗」という状況をなかなか感じることが出来ない時代になりました。お店の看板、街燈、信号、コンビニ、‥など、真夜中でもどこかに光があります。光があるということは安全であるということでもあります。光は行く先を照らし、目的地へ導いてくれます。また危険を察知し、回避する事が出来ます。

しかし、多すぎる光は闇の存在を忘れさせます。もしかしたら、この世の中は不安や危険を忘れさせるためにたくさんの光で照らしているのかもしれません。見えない先を自分たちの作った光で照らし「ほら、こんなに世の中は明るい。ほら、こんなに未来は明るい」って言っているのかもしれません。

でも、人の作った光の先に本当の未来はあるのでしょうか。もっと未来を明るくしよう、と言って私達の手に負えない原子力を使ったり、安全や安心のために、と言って戦争しても負けない国にしようとしたり。それは本当の光なのでしょうか。その先には人の作った闇が待っているように思います。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。」と詩編の作者は言います。「あなた」とは神様です。ここで言う「光」とか「灯」とはきっと小さなランプのことでしょう。昔は、闇はちゃんと闇でした。この大きな闇の中でこの小さな灯は自分の足元を照らしたり、自分の顔や近くにいる人の顔を照らしたりする事しか出来なかったでしょう。そして神様の言葉はそんな小さな灯だというのです。そういうと何か頼りなさそうな感じがします。もっと明るく照らして欲しいと思います。

でも、本当は明日の事なんて誰も分からないのです。先に何があるかなんて分からないのです。真夜中でも眩しく輝き、未来を照らす光なんてまやかしです。夜は暗いのです。神の言葉は小さな灯火。でも、その灯火を持って歩くならば、その灯火によって一歩先も照らされています。その灯火によって照らされている今日を生き、そして明日も光は足元を照らしてくれると信じて、次の一歩を踏み出すのが信仰です。その踏み出した一歩で出会う人と一緒に光を喜びましょう。 (田中伊策牧師)

 

一歩先も照らされている 詩編119編105節

「一緒だと元気が出る」 詩編23:1-6

一緒だと元気が出る
詩編23編1-6節

「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。」 (2節・3節) 「青草」とは食べ物、「水」は飲み物です。しかし、この詩編の作者は食べ物が自分を生かし、飲みのものが自分を潤すのではなく、「主が私を休ませ」「主が私を生き返らせてくださる」と言います。それは私を導き、私に伴ってくれるから、です。

食べ物や飲み物は大事です。でも、それを誰と飲み、誰と食べるか、もかなり大事だと思います。むしろここでは主が私を生き返らせてくれる、と言っています。ここで言う「生き返る」とは勿論、死んだ心臓が再び動き出す、と云う意味ではありません。喉が渇いている時に水とか、ビールとかを飲んで「生き返る~!」とか言うじゃないですか。あれです。

生き返るとは「元気が出る」という事です。「元気が出る」その元気の源は、一人じゃないということです。問題を抱えて一人で悶々とする、悩み悲しみに一人打ちひしがれる、そんな時に、誰かがいると言う事がどれだけ慰めになるか。解決しなくても話を聞いてくれる人の存在がどれだけ有り難いか。闇に引っ張られそうになる、絶望に落ち込んでゆく自分を、誰かによって希望へと導かれる。そういうことです。

いつも思ったとおりの道に進むことは出来ません。そんな時に、「神も仏もあるものか」とか「神様はどうして私にこんな事をされるのか」と思う訳です。そんな時に私たちは忘れてしまっています。私たちが大切にしなければならないのは、この悲しみの中にも神様は共におられる、という事です。神様はこの課題の前に私一人を置き去りにされない、ということ。そこにこそ私たちの希望はあるのです。(牧師:田中伊策)