「私なんて、と思わない」 マルコ7:24-30

クリスマスはもう少し先ですが。

イエス様がお生まれになった事を東の国から来た占星術の学者が喜んだ、羊飼いたちが喜んだ、と聖書に書かれていますが、救い主と言っても赤ちゃんです。まだ何も起こっていない。星だとか天使だとか周りだとかが伝えたり示したりしているだけで、本人は赤ちゃんであり、何かすごい事をしたとか、尊いお言葉を下さった訳でないのに、なぜ嬉しかったのでしょうか。

それは約束が成就されたからです。辛い思いをした、悲しい経験のためにいまなお傷を抱えている、問題は山積みだ、出口も見えない。そんな中で、しかし神様からの約束の言葉が心にあった。「救い主が生まれる」きっと心のど真ん中じゃなくて、どこか端っこでぎりぎりでぶら下がっている程度のものだったと思います。ほとんど忘れかけていたようなもの。その約束の言葉を頼みにするには傷付きすぎていたから。でも、その約束が果たされた。

その約束はただ「生まれる」が「生まれた」になっただけです。無力な命がそこにあるだけです。でも、約束が守られた、神の言葉が行われた、その事実を目の当たりにした、それは大きな希望です。だから嬉しいのです。よかった、神様の言葉は本当だった。これからも約束に生きて良いんだ。神様に頼って良いんだ。信じて良いんだ。そう思ったのではないでしょうか。よし、約束に生きてみよう、約束に生きて行こう、そう思ったのではないでしょうか。

私たちは「生きる」というただそれだけで、既に先に向かっています。行き詰まろうと、悩もうと、落ち込もうと、生きているというただそれだけで、命は前を向いています。赤ん坊はその象徴です。その赤ん坊が約束に生きよ、と指示しています。「私なんて」と思わなくていい。 (牧師:田中伊策)

「私なんて、と思わない」 マルコによる福音書7章24-30節