カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年3月16日「ホサナ! 幼子のようにイエス様を讃美」

 皆さんは、イエス様にどんなイメージを持っておられるでしょうか。怒ったりせずに、いつも静かに微笑みを浮かべているといったイメージでしょうか。しかし、聖書を読みますと、喜怒哀楽の姿が記されています。今日の「宮きよめ」と言われているお話しには、イエス様が怒られたことが記されています。
 イエス様は、過越祭が近づくとエルサレム神殿の境内に入り、そこで両替や生け贄の動物で商売していた人々を追い出して、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』、ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われます。両替商も生け贄の動物売買も、巡礼者が律法を守るために必要なことでした。しかし、彼らは、それを隠れ蓑にして暴利を貪っていたのです。
 イエス様の宮きよめによって境内は混乱しますが、その時、目の見えない人と足の不自由な人たちが、イエス様のところに近寄って来ると、イエス様にいやされます。それを見ていた子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と叫びます。祭司長や律法学者たちは、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と腹を立てます。それに対してイエス様は、神様が子どもたちに讃美の声を歌わせているのだと答えられます。私たちは、幼子のように素朴な心をもってイエス様を受け入れることが大切です。そうすれば、神様は、私たちに恵みと祝福を与えてくださるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月9日「私たちの思いを遥かに凌ぐ、神様の恵み」

 マタイ福音書には、23のたとえ話がありますが、現代の私たちからすれば理解しがたいものもあります。その一つに「ぶどう園の労働者」のお話しがあります。この話しは、ぶどう園の主人が、朝早くから夕方まで5回に亘って労働者を雇います。そして、仕事が終わると主人は、朝早くから働いた人も夕方から働いた人もみんな同じ賃金を、支払ったというお話しです。私たちの常識からすれば、朝早く働いた人と夕方から働いた人の賃金が同じということは考えられません。朝早くから働いた人は、主人に不平を言います。それに対して主人は、「友よ」と呼びかけてから、「あなたに不当なことはしていない。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と諭します。
 このお話しは、天の国のたとえ話です。この世の常識は、働きが多いものに多くの恵みが与えられます。しかし、天の国では、雇われた時間は違っても、神様の呼びかけに応じる時、先の人も後の人も同じように救いと恵みが与えられるとイエス様は言われるのです。あなたは、イエス様のお話しに納得できるでしょうか?(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月2日「神様に赦されたものとして」

 ペテロはイエス様に、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねます。当時のユダヤ教は、「三回までは赦しなさい」と教えていましたので、七回までの赦しは寛大な赦しと言えます。
 しかし、イエス様は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われます。それは、無制限に赦しなさい、ということであり、赦すことを数えてはならないということです。
 さらにイエス様は、莫大な借金をした家来のたとえ話をされます。それは、すべての人がどれだけ多くの罪を犯しているけれども、神様は、憐みをもってその罪を赦してくださっていることを教えています。神様は、私たちの背負いきれない罪を、イエス・キリストによって赦してくださいました。そのことを感謝し、神様に赦されたものとして、互いに赦し合って歩んでいきましょう。

(牧師 篠田 裕俊)

2025年2月23日「自分の十字架を背負って、イエス様に従う」

 イエス様が、「人々は、人の子を何者だと言っているか」と尋ねると、弟子たちは、洗礼者ヨハネや救い主(メシア)の前に現れるエリヤやエレミヤなどと言っていますと答えます。しかし、イエス様と寝食を共にし、イエス様の教えと御業を見てきたペテロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白します。その告白に対してイエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。こうして教会は、「イエス・キリストの福音」という鍵を授けられた天の国に入るための門となりました。
 また、イエス様は、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると予告されました。それは弟子たちにとってあってはならないことです。
 しかし、イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。自分の十字架とは、これまでの古い自分を捨てて、イエス様に従って新しい人生を歩むことです。その歩みは、イエス様によって守られるだけでなく、永遠の命が約束されているのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年2月16日「神の国と神の義を求めて」

 イエス様は、天の国を、「畑の中の宝」「良い真珠」「地引き網の魚」にたとえられます。天の国とは、イエス・キリストによってもたらされた福音のことです。その福音は、聖書の中に隠されています。聖書は、宝が隠された畑です。その畑から自分の人生を変えるような御言葉に出会うことがあります。また、聖書は、高価な真珠が眠っている海です。その海の中から、救いを求めて御言葉を探していくことが大切だと言われるのです。そして、地引き網の魚のたとえは、網の中には、良いものも悪いものも一緒に集められるが、終わりの日にはふるいにかけられて、悪いものは捨てられると警告されるのです。
 イエス・キリストの福音とは、神様と共に歩む人生です。聖書の御言葉との出会いを喜びながら、神の国と神の義を求めて歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年2月9日「信教の自由を守り続ける」

 イエス様は、弟子の中から12人を選ばれて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す力を与えられ、「天の国は近づいた」ことを宣べ伝えるように命じられます。それとともに、国家権力や宗教指導者からだけでなく、家族からも迫害されるが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われます。つまり、迫害にあった時には、殉教するのではなく、蛇のように賢く逃げ出し、鳩のように素直な信仰を保ち続けなさいと言われるのです。
 11日は、「建国記念の日」です。教会は、この日を「信教の自由を守る日」としています。それは、憲法で保障されている基本的人権である「信教の自由」が侵された歴史を忘れることなく、それを守り続けることを確認する日としてしているからです。イエス様が予告された「信教の自由」に対する迫害の音が大きくなっているようです。私たちは、そうならないように、蛇のように賢く、鳩のように素直になって、信教の自由を守って歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

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2025年2月2日「わたしが行って、いやしてあげよう」

 イエス様の「山上の説教」に感動した人々は、イエス様と一緒に山から下りてきます。すると、一人の重い皮膚病を患っている人が、イエス様に「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と嘆願します。イエス様はその人に触られていやされました。また、異邦人の百人隊長が、自分の僕が中風で苦しんでいることを訴えると、イエス様は百人隊長の信仰を見られて、「あなたが信じたようになるように」と言って、僕をいやされます。さらにペトロの姑が、寝込んでいるのを見られると、その手に触れられていやされます。
 いやされた三人は、当時のユダヤ社会から疎外され、軽視されていた人たちです。三人が、イエス様に求めることが出来たのは、イエス様の御言葉を信じたからです。それは、イエス様に直接会えない私たちにとって、とても重要なことです。イエス様の御言葉は、聖書に記され、礼拝によって証しされます。御言葉には、権威と力があります。それを信じる時、イエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われて救ってくださるのです。その恵みに感謝して、イエス様の御言葉を聞きながら歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月26日「イエス様と祈る喜び」

 私たちは、どのような時に祈るでしょうか。多くの人は、苦しみや悲しみの時、神様にすがる思いで祈ります。しかし、私たちキリスト者は、苦しみや悲しみの時だけでなく、喜び、楽しみ、安らぎの時も祈ります。キリスト者にとって、祈りは、呼吸であり、息吹と言えます。イエス様は、祈る時には、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われます。なぜなら祈りは、神様と対話する時であり、それは神様とのデートと言えます。ですから、祈りは人に見せるものではないからです。でも、どのように祈ったらよいか分かりません。そんな私たちのためにイエス様は、「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは、神様への呼びかけから始まり、六つの祈りが込められています。初めの三つの祈りは、神様のための祈りです。続く三つの祈りは、私たちのための祈りです。主の祈りは、一生を通して祈り続ける祈りです。そして、祈る時には、イエス様も一緒に祈ってくださっています。けっして一人で、孤独の中で祈るのではありません。これほど心強いことはありません。私たちは、祈り続けることによって、イエス様という希望の光の中に立ち続けることができるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月19日「敵を愛し祈る人は、幸いである」

 マタイによる福音書の5章から7節は、「山上の説教(垂訓)」と言われている有名な箇所です。イエス様は、山に登られて、人々に天の国とはどんな所であるかを教えます。その中の一つに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。私たちにとって敵とはどんな人でしょうか。それは、自分を迫害する人です。私たちは、そんな人を愛することも、祈ることもできません。それなのに、どうしてイエス様は、「愛しなさい。祈りなさい」と言われるのでしょうか。その理由をイエス様は、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者」となるからだと言われます。
では、「完全な者」とはどんな人なのでしょうか。それは、人を差別することなく愛する人のことです。神様は私たちを愛して罪を贖うために、イエス様を十字架につけられました。しかもイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。それだけ私たちは、神様から愛されているのです。敵を愛し、祈る時、その人は変わります。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。私たちが、それに応えるとき、イエス様は「幸いである」と言われるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月12日「イエス様に見い出されて従う恵み」 

 洗礼者ヨハネが捕まったことを聞いたイエス様は、ガリラヤに退かれて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、福音を宣べ伝え始められます。そして、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを見て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。イエス様に呼ばれた彼らは、すべてを捨ててイエス様に従います。きっとペテロたちは、自分の意志でイエス様の弟子になったと思っていたことでしょう。
 しかし、イエス様が、ペテロたち四人を探されて弟子にされたのです。それは私たちも同じです。私たちがイエス様を探すのではありません。イエス様が、私たちを探して下さり、あなたの重荷を担うから、「わたしについて来なさい」と言われるのです。イエス様にすべて委ねて従うことで、新しい生き方が与えられます。何より、イエス様と共に歩む道ほど安心なことはありません。イエス様の恵みを受け取って、イエス様と一緒に歩んでいきましょう。 (牧師 篠田 裕俊)