カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

「人生の逆転」ヨハネ4:1-15

ある日のお昼頃、一人のサマリヤの女性が水を汲みに井戸にやって来ました。そこに、疲れた様子の一人の男性、それも(サマリヤ人とは仲の悪い!)ユダヤ人の男性が座っていました。彼女は彼を避けて水を汲もうとしました。ところが彼は言いました、「水を飲ませてください」。彼女は言いました、「ユダヤ人のあなたがサマリヤ人の私に、『水を飲ませてください』ってよく言えますね」。それに対してユダヤ人の男性は言います、「私は喉が渇いて死ぬほどなんだ。そんな時はユダヤ人であろうとサマリヤ人であろうと関係なく助けを求めるだろう?あなただって、神様が下さったプレゼント、生ける水を私が持っていることを知ったら、ユダヤ人の私に対して自分から『それ、ください!』って言うはずだ。なぜなら、あなたの心は私の身体と同じように渇き切っている。だからこの時間に水を汲みに来たのでしょ?」。

一般的に水を汲みに来る時間は朝か夕方です。真昼間に水を汲みに来る人はいません。それなのに、彼女はこの時間にやってきた。それは人を避けるため。また、その名の通り井戸端会議を避けるためです。独りになる時も必要でしょう。しかし、人との関係を避けようとする事は無言のうちにSOSのサインを出しているのと同じです。何故なら、人は一人では生きられないからです。彼女は生きる事への力を失っていた、彼女の魂は渇き切っていたということです。

彼の言葉によって、そして彼との対話によって彼女に変化が訪れます。彼女は何も持たないその男性から「その水をください」と言います。持っていると思っていた彼女は水を求める彼の言葉を通して自分の渇望を知り、持たない彼から「生ける水」を求めます。ここに大きな逆転があり、それは信仰の始まりと似ています。持っていると思っていた私たちが、この男性を通して私たちに既に与えられている神の愛を知る事により、手の中に握りしめていた物の空しさを知り、空っぽになるまで愛を注ぎ切り十字架で死んだ彼、即ちイエスをキリスト(救い主)とする、という人生の逆転の出来事です。

私達が生きるこの社会は「自己責任」そして「個人主義」という時代です。これは時代のSOSです。その解決は互いを必要とし、共に生きる事を通して孤独から解放される事にあります。(牧師:田中伊策)

「人生の逆転」ヨハネによる福音書4章1-15節

「風を受けて生きる」ヨハネ3:31-36

私たちの毎日にはいろんなことが起こります。もう駄目だ、って事も起こります。人間の視点では絶望的に思える、けれども神はそこにさえ愛を注がれます。もう無理、もう駄目、と思う所にさえ神は愛を注ぐ、それは「神は諦めない」ということです。

上から来られる方は、すべてのものの上におられる」(31節)これはイエス様の事です。イエス様は「上から」来られた、つまり神のまなざしをもっておられということです。でも人間は「だれもその証しを受け入れない」(32節)と書かれています。それが私たちです。信じている者でさえそうです。すぐに現実に負けそうになる。「そうは言っても現実は厳しい」って。そうやって人の視点で絶望しそうになるのです。けれども、イエス様のまなざしはその逆で、「現実は厳しい。でも神様はあなたを愛しているよ」と愛で現実を越えるように促されました。そしてこのイエスの言葉を生きる者つまり「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」(33節)、そしてこれこそが「新しく生まれた者」「上から生まれた者」神のまなざしに生きる者なのだとヨハネ福音書は語っています。

私達は風を見ることは出来ない。それは神を見ることが出来ないのと同じです。けれども、私達は御言葉を通して、イエス様の姿を通して神を知ることは出来ます。それで良いのです。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が”霊”を限りなくお与えになるからである」(34節)とある通りです。このイエス・キリストを通して神の愛を風のように感じる時に、私達は神を知ることが出来るのです。聖霊は決して知識ではありません。だから言葉で説明出来なくても構わないのです。(牧師:田中伊策)

「風を受けて生きる」ヨハネによる福音書3章31-36節

「委ねる」ヨハネ3:22-30

バプテスマのヨハネという人物がおりました。彼はイエス・キリストより少し前に活躍した人物で、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒され火に投げ込まれる。」(マタイ3:10)と脅すような強い言葉で人々に生き方や行いの方向転換を迫りました。そして多くの人がヨハネに期待して彼の元に集まってバプテスマ(全身を水に浸す形の洗礼)を受けていました。

そんな最中、イエスもまた宣教を始めます。イエスは言います「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。イエスもまた方向転換(悔い改め)を迫るのですが、ヨハネとは違って「あなたがたは神様に愛されているのだ」と語り、生き方や行いの変革よりもむしろ心を開かせようとされました。

ヨハネによる福音書では、そのためにヨハネよりもイエスにバプテスマを授けてもらおうと人々が集まったと記されています。それについてヨハネの弟子はイエスへの妬みと「自分の師匠の元にこそ人が集まるべきだ」という思いと「師匠、もっと頑張ってください」という気持ちをもってヨハネに報告します。しかしヨハネは言います、「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3:30)。

「衰える」ということは「力が弱まる」ということです。そして「人に助けてもらわなくてはならない」「人に背負ってもらわなくてはならない」ということです。ヨハネは人々に頑張る事、強くある事を群衆に訴えて来たし、ヨハネの弟子達はヨハネに自らの理想を背負わせようとしました。しかしヨハネは、自分の弱さや小ささを神様に委ね、背負ってもらうという新しい生き方へと導く方がイエスなのだ、この方こそ神の子だ、と告白するのです。(牧師:田中伊策)

「委ねる」ヨハネによる福音書3章22-30節

「そこに愛はあるか」ガラテヤ5:2-15

キリスト教は聖書(旧約39巻・新約27巻)を聖典として大切にしています。そしてそこにはとても多くの言葉、多くの戒めが記されています。クリスチャンがこの聖書の言葉を大切にする、と聞くと決まりごとにガチガチに縛られ窮屈そうに思う人もいるかも知れません。クリスチャンはこの聖書のすべての言葉、すべての戒めを大切にしなければならないのでしょうか。

聖書の中に「ガラテヤの信徒への手紙」というところがあります。ここにはガラテヤという場所にある教会に、正に「戒めの全てを守らねばならない」とする人々が現れて混乱する教会の姿と、そんな教会に対しての思いを伝える伝道者パウロの言葉が記されています。この「戒めの全てを守らねばならない」とする人々は言います、「ユダヤ人のように律法を守り、割礼も受けなさい」(「割礼」というのはユダヤ人(ユダヤ教徒)が生まれた時に施されるものです。彼らは旧約聖書の言葉の全てを守る人々です)。それに対してパウロは「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」(5章3節)と言います。このパウロの言葉を別の言い方をすると「あなたがたはユダヤ教徒(ユダヤ人)になったのではなく、クリスチャン(イエスを救い主と信じる人々)になったのだから律法の全てを守る必要はないのだ」ということです。

けれども、そうなると「聖書は聖典」という意味が無くなってしまいそうです。しかしパウロは「律法全体(律法の全て)」を守らなくても良い、と言っただけで「何も」守らなくて良い、と言った訳ではありません。パウロは言います、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」(5章14節)。これはつまり「聖書のエッセンスは『愛する』って事だよ」という意味です。

この愛というエッセンスで照らしながら改めて聖書を読む時、私たちが大事にする言葉や戒めが浮かび上がって来るはずです。私たちが大切にしなければならないのは、そういう聖書の言葉、そういう戒めです。そこに愛はあるか、それが聖書を読む時のポイントです。(牧師:田中伊策)

「そこに愛はあるか」ガラテヤの信徒への手紙5章2-15節

「世界は愛されている」ヨハネ3:16-21

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)という言葉は、聖書の言葉の中で最も有名な言葉の一つです。しかしこの言葉をそのまま受け取るならこの「愛」は重た過ぎます。「お与えになった」という言葉は、「(神が)世を愛するための罪の身代わり(にした)」という意味があるからです。それは例えば私が何か過ちを犯した際に、「私はあなたの過ちを赦すために私の独り息子を身代わりとして有罪にしましたのであなたはもう大丈夫です」と言われているようなものです。もし、私がそう言われたら「やったー!ありがとう!」と無邪気に思えません。「あなたの息子さんに申し訳ありません」と言うでしょうし、もしかしたら「結構です!」と言うかも知れません。それくらい重い言葉です。

しかし、この「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は、その独り子であるイエス自身が語った言葉として聖書(新共同訳)では記されています。イエス自身が「神がどれだけこの世を愛しているかを示すために私はいるのだ」と語っている言葉であり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とは「私は、世を愛された神からその愛を示すように遣わされた。この神の愛を信じることで社会にも自分に絶望することなく、希望をもって生きる力を得るように」と言う意味なのです。

悩みがあり、悲しみがあり、弱さがあり、病があり、疑いがあり、裏切りがあり、憎しみがあり、犯罪があり、死があり、…そんな世の中に私がいます。こんな愛される価値なんて無いような世の中や私を、それでも神は愛されます。そしてイエスは「この愛を信じることで今を生きて行ける、絶望を希望に変えることが出来る。そのために私は愛し、そのために語り、行い、生き、そして十字架に向かう」と語られるのです。(牧師:田中伊策)

「世界は愛されている」ヨハネによる福音書3章16-21節

「風が自由なら…」ヨハネ3:1-15

この聖書の箇所には「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(4節)という言葉があります。それはイエスが「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われたからです。さらに、イエスは5節でもう一度言います「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「新たに生まれる」→「水と霊とによって生まれる」、「神の国を見る」→「神の国に入る」と言い直しています。新しく生まれるとはイエスに従うということであり、神の国を見るとは信じて一歩踏み出す事なのです。

踏み出さなければ見えない景色があります。未来とはそういうものです。「未来」というのは「未だ来ていない」ということです。この世の現実に飲み込まれて流されて行くのか、それともその未来に向かって自分から一歩踏み出してゆくのか、それが問われているのです。

「新たに生まれる」これは私達バプテスト教会にとってとても大切な言葉です。私たちバプテストが使う讃美歌は「新生讃美歌」、これは正に「新しく生まれる」とか「新しい命に生きる」ということです。そして、バプテストが行う洗礼の方法は大きな水槽(バプテストリーと言いますけど)に体ごと沈み、そして起き上がる、罪の自分が死んで、主と共に新しい命に生きる、ということを象徴しています。新しく生まれる、ということです。新しく生きる、ということは私たちにとってとても大事な事柄なのです。

「風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)とあります。この「風」と「霊」とは原典では同じ言葉(プネウマ)という言葉が使われています。風は自由です。神の働きも自由です。その風に押し出されて、私達も未来にむかって自由に進みだす。昨日とは違う今日を生き、今日とは違う明日にむかって進むのです。それが新しく生まれる、新しく生きる、ということです。(牧師:田中伊策)

「風が自由なら…」ヨハネによる福音書3章1-15節

「礼拝の始まり」ヨハネ2:13-25

「宮清め」と呼ばれるこの個所にはイエス様の乱暴とも言える言動が記されています。エルサレムの神殿の境内で「羊や牛をすべて境内から追い出し」「両替人の金をまき散らし」「台を倒し」「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われています。これでは物やお金を捧げる事が出来ません。そして捧げ物こそ神殿礼拝の中心です。つまり、イエス様は神殿礼拝を否定するのです。

旧約聖書のイザヤ書66章1節には「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに/わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」と記されています。これは私たちの信じる神は人間の作った神殿に収まるような神ではない、ということです。それは教会も同じです。礼拝堂に神様がいるのではないのです。ここには礼拝をする私達がいるのです。私達と共におられる神をここで他者と一緒に礼拝するのです。神様はどこにでもおられます。それなのに彼らは、神殿礼拝は神殿にこそ神様がいると勘違いしています。儀式に固執し、形式に縛られた礼拝をすることは、神を神殿に縛り付けることでもあります。

イエス様は、犠牲の捧げ物を廃し、儀式的な礼拝を退けた時になお残るもの、つまり礼拝の本質であり、中核をなすものは何か?を問うておられるのです。それは「私を捧げる」ということです。それこそが礼拝の中心です。この世に生きる私たちは悩みや悲しみ、様々なしがらみの中で生きています。しかし、それらが重くのしかかろうとも、変わらずに共におられます。目まぐるしく変わる世の中にあって神だけは変わらない。その廃る事のない神の愛に生きる時に、私達は世にあって自由を得ます。その自由こそ救いです。その救いの喜びを共におられる神に捧げる、そこから礼拝は始まるのです。(牧師:田中伊策)

「礼拝の始まり」ヨハネによる福音書2章13-25節

「私も一緒に喜ぶために」ヨハネ2:1-12

「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」(1-2節)

イエスがお祝いの席についている、というのは聖書では見かけることのない姿です。聖書でよく見る悲しむ者、傷んでいる者、虐げられている者、病を負っている者、そういう人と共におられるイエスの姿とは違った姿のように思えます。けれども、イエスはよく人々と食事を共にしています。ただ一緒に悲しむだけでなく、一緒にいる中に喜びや希望を共に見出そうとされていたのです。

イエス様の時代、結婚のお祝いは一週間にも及ぶことがあったそうです。それは単にお祭り好きだったのでも、ただのしきたりでもなく、大きな意味があったように思います。これだけ嬉しい事に一生懸命になったのは、辛い毎日、過酷な現実の裏返しだったからではないでしょうか。世界的に有名なブラジルのリオのカーニバルもまた何日にもわたってサンバが踊り続けられます。きらびやかな衣装に身をまとって踊り、巨大な山車を引いているのは庶民です。貧しい中から生活費を削って衣装や山車の費用とします。貧しく厳しい生活だからこそ、喜びが必要であり、その喜びのために一所懸命になるのです。

その結婚のお祝いでぶどう酒が底をついた!そんな時にマリアが、イエスが、召使いたちが二人のため、そして私も一緒に喜ぶために人知れず苦労する物語がこの聖書の箇所です。私の苦労や努力を誉めてもらうためではなく、私も一緒に喜ぼうとするその出来事に 神様の大きな祝福が与えられるのです。(牧師:田中伊策)

「私も一緒に喜ぶために」ヨハネによる福音書2章1-12節

「悩むより早く 逃げるより早く」マルコ16:1-8

イエスが十字架にかけられて死なれてから三日目、女性たちはイエスの遺体が傷まないように油を塗りに出かけます。しかし、彼女たちには悩みがありました。お墓は大きな石で閉ざされていたのです。どうやってそれをどけようか?それでも彼女たちはイエスの元に向かったのです。

「悩みながらも行ってみた」そこに彼女たちの信仰があります。どうせ駄目だと諦めるのではなく、良い方法が見つかるまでじっとしているのでもなく、それでも進みだす。信仰という事柄も同じなのだと思います。私たちの人生は一歩先にどんなことがあるか分かりません。だから進まないか、だから諦めるか、そういう訳には行きません。それでも進みます。そんな時に信仰があるって強いと思います。この見えない先にも必ず神様はいて下さる、それが新しい一歩を進みだす力を与えてくれます。彼女たちは悩みながらも進みだしたのです。

さて、お墓に行ってみると、既に石はわきに転がしてあったと聖書には書かれています。その見えない一歩先で、彼女たちが悩むより先に既に神様の働きは備えられていたのです。

しかし、彼女たちは更に驚きます。遺体はなく、そして一人の若者が「あの方は復活した」と語ったからです。信じて進みだしたはずの彼女たちですが、この言葉にさすがに恐れ、逃げ出し、そして「だれにも何も言わなかった」とあります。しかし、誰にも言わなかった話がどうして記事として記されているのでしょう。それは、彼女たちが語りだしたからに違いありません。それはとりもなおさず、逃げ出した先で復活したイエスと出会ったからです。主は彼女達が逃げるより早く待っておられ、彼女たちの恐れを取り除かれたのです。信仰は人間の業ではなく神の業によるのです。(牧師:田中伊策)

「悩むより早く 逃げるより早く」マルコによる福音書16章1-8節

「直線だけがまっすぐではない」箴言3:5-6

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。

そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(箴言3章5-6節)

「あなたの道を歩け」と書かれていると、「あなたらしく進め」と思う人が多いと思います。「あなたらしく」とか「私らしく」とか、魅力のある言葉ですね。でもこの「あなた(私)らしく」には落とし穴があります。人がなんて言おうと私は私、という他者との隔てが生まれがちになるところです。むしろこの聖書の個所では「自分の分別に頼らず」と書かれています。そこには「あなたはあなたのままでいい」とか「ありのままの私」とか「あなたはあなた 私は私」とか、人と自分を分ける事への否定が記されています。

人間も含め、命というものはすべからく外部や他者からの刺激によって成長するものです。その刺激と命そのものが持っている個性とが重なり合って「私」が「私」になってゆくのです。

「私は私の道を行く」それは一見、直線であり「まっすぐ」な生き方のように思えます。しかし「私」は一人では生きられないのです。この聖書の個所には「心を尽くして主に信頼し」とあります。神様でなくても信頼に値する存在や誰かを信頼して進む生き方へと促しています。誰かと生きるというのは自分の思った通りには進めません。速くなったり遅くなったり、右に行ったり左に行ったり時には後戻りしたり、そういうこともあるでしょう。でも、それこそが人としてまっすぐな生き方なのだよ、と聖書は語っています。直線だけがまっすぐではない、くねくね曲がったまっすぐだってあるのです。そんな生き方を神様は「それで良し!」と言われます。それが「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」ということです。            (牧師:田中伊策)

「直線だけがまっすぐではない」箴言3章56節