「人生の主」 マルコ1:29-31

中学、高校生の時、学生カバンを細くするのが流行っていました。ほんの2、3センチの厚さの学生カバンに作り替えるのです(面倒くさがりな私の学生カバンはアコーディオンのような厚いままでした)。当然、薄いカバンに教科書は一冊も入りません。それでは教科書はどこに、というと机の中です。ですから、カバンを細くした人は、決して教科書を忘れることはないのです。でも逆に言うと、教科書は学校にしかありません。

私たちは礼拝を守るとき、心を傾け、思いを尽くして礼拝を捧げます。しかし、日毎の生活や仕事や勉強は忙しい。そんな追い立てられるような日々の中で、礼拝の事、信仰の事がいつの間にか二の次、三の次になってくる。そして日曜日になって慌ててイエス様が私たちの主であることを思い出す。それはまるで、教科書を机の中に置いて来た学生のようです。彼らの教科書が学校にしかないように、私たちの信仰も教会だけ。私達は生活に、日常に、社会に染まりやすいのです。

そのような私達のためにも礼拝をする日曜日は毎週訪れるのですが、この自分に甘んじるのではなく、むしろ生活の中でもイエス様を主とする、信仰を生きる指針としてゆくために礼拝するということを私達はもう一度、いえ、何度でも思い返す必要があります。私達の心を、学生カバンのようにぺちゃんこにすることなく、イエス様を迎え豊かにして日々を歩んで行く、そうなることが望まれています。私達にとってイエス様は教会の主であると共に人生の主です。 (牧師:田中伊策)

「人生の主」マルコによる福音書1章29-31節