「おめでたい人々」 ローマ10:5-13

「おめでたい人々」 ローマの信徒への手紙10章5-13節

「信仰によって義とされる」と言う言葉は聖書の中に何度か出て来る言葉です。「義」という言葉には「正しい」という意味があります。ですから「義とされる」というのは「お前は正しい、と認められる」ことです。つまり神様から「それでよろしい!」と太鼓判を押される、それが聖書の中に出て来る「義とされる」と言う言葉の意味です。

ではどういう時に正しいと認められるのでしょうか?たくさん聖書の勉強をして神様の事がよく分かった!という時でしょうか。たくさん修行や善行を積んだ時でしょうか。それともすべての欲を捨てて、ひたすら黙想したその先で認められるのでしょうか。全部違います。神様が共におられる、と信じる時です。

神様を信じる時に「それでよろしい!」と神様に太鼓判を押されて安心する。それが嬉しいと言葉に表す。その時にあなたは紛れもなく救われている、それが「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」という言葉の意味であり、それが私たちの信仰です。 信じるだけで良いとは何とも太っ腹な神様です。

しかし信じる方も負けてはいません。信じるだけで良いという言葉を真に受けて、それを信じて喜ぶとはクリスチャンとはなんとおめでたい人種でしょうか。でも、おめでたくて良いのです。その信じると言う事の中にこそ希望があるからです。お互いに信じ合う事の出来ない関係には希望がありません。相手を信じるだけでなく、相手から信じてもらわなくては不確かで破れの多い私には生きる道がないからです。

時には他者から、そして自分自身からも裏切られる事があるけれど、それでも赦し、赦される中で信じながら生きて行く。信じて生きる中で神様から「それで良い!」と言われる、それは同時に「そこに人の生きる道がある」というメッセージでもあります。おめでたい人々であり続けましょう。 (牧師:田中伊策)