「恵みが先にある」 出エジプト記20:2-3

先週、あるニュースでとても残念な思いになりました。もうご存知の方も多いと思いますが、キリスト教系の団体の幹部の人がお寺や神社に「清め」と称して油をかけていた(らしい)というニュースです。まだ裁判も行われていないので「らしい」なのですが、これが本当なら非常に残念です。

けれども、宗教というのはきっとこういう事の繰り返しだったのだと思います。きっとこの油をかけた人は「自分は正しいことをしている」と思っていたことでしょう。「日本の宗教は偶像礼拝だ、それを止めさせなければ。たとえそれで傷つく人がいても、が悲しむ人がいても、正しい事が分かれば、みんなが幸せになる、平和になるのだから結果的には良いのだ」と思っていた事でしょう。そう思って非常に熱心に活動していたのでしょう。

しかし、聖書にはこう書かれています、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(ヨハネ2:11)。神さまから恵みをもらっているはずなのに、その熱心さによって、もらうどころか神を食い物にしているというのです。イエス・キリストが私のために十字架にかかって下さった、その恵みによって救われたはずなのに、いつの間にかそれが「恵み」ではなく「自分の熱心」になってしまって、キリストの十字架の苦しみを増し加えさせている、ということです。

熱心さが先に行ってしまい他の宗教の建物を傷つけ、それを大切にする人の心を傷つけるのであれば、それは信仰ではありません。イエス様に従うのではなく、自分の熱心さに従っているのです。偶像を壊そうとしながら自分の中に熱心さという新しい偶像を作り、社寺仏閣に「清めの油を注ぐ」と言いながら自分自身が罪まみれになり、「信仰によって自由になった」と言いながら「自分の理想の奴隷」になっているのです。 (牧師:田中伊策)

「恵みが先にある」 出エジプト記20章2-3節