「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントⅠ 8:1-13

「弱さの中に伴われるキリスト」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 8章1-13節

お祭りって聞くと何だかワクワクします。しかし元来、お祭りというのは宗教との関わりで行われてきたものですよね。豊作を神様に感謝するものだったり、災害が起こらないように神様を鎮めるものだったり。はて。お祭りとかそういう他の宗教行事にクリスチャンはどういう立場を取ったら良いのでしょうか?

この種の疑問はキリスト教が生まれた時からありました。コリントという町の教会からパウロという伝道者に一通の手紙が送られました。きっとこんな手紙だっただろうと想像して書いてみます「拝啓 パウロ様。お元気でらっしゃいますか?ご存知の通りこのコリントという町は、いろいろな宗教、いろいろな神様が並び立っている町です。いろんなお祭り、いろんな礼拝が行われます。それで質問です。礼拝やお祭りの時に出されるお肉は食べて良いのでしょうか。あの肉はきっと捧げられてから振る舞われている肉だと思うのですが偶像礼拝にならないでしょうか…。では、くれぐれもお体を大事にされますように。敬具」

それに対してのパウロの答えはこうです。「偶像に供えられた肉について言えば(8:1)、そもそも私達は『偶像などというもの神ではない』と思っているのですから、食べたって食べなくたってどっちでも良いのです。でも、それが気になって仕方ないという細やかな人もいますよね。もし、あなたがその人の前で「私は偶像なんて神じゃないから食べちゃうよ」と言って食べたら、きっとその人も(食べなくちゃいけないかな…)なんて思いながら無理して食べる事になるでしょう。そんな事になったら、その人は行い(体)と気持ち(心)とが裂かれて苦しい思いをしてしまうことでしょう。その人が救われるためにもキリストは死なれたのに。あなたは食べて構わない。でもあなたが飲み食いするその自由さによって他の人が傷つくなら、きっとあなたの言動にキリストも傷つくでしょう。もし、自由な振る舞いで誰かが傷つくのだとしたら、私なら肉を食べないけどなぁ」。

「自分の自由が誰かを傷つけるなら、それはもう罪だ!」とパウロは言います。自分の自由を貫く強さを持った時必ずどこかで傷つく。しかしキリストは弱さに伴われた。弱さの中で痛む中にキリストはおられる。同じ宗教の人同士でも、勿論違う宗教の間柄でも、一緒に弱さの中で苦しむ人の姿を見る事が出来たら、きっと一緒に生きる道を見つける事が出来るはずです。一緒に祝う日が来る事を願いつつ。(牧師:田中伊策)