「愛があれば」 コリントⅠ 13:1-3

「愛があれば」 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1-3節

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(1節)

「異言」というのは熱心に祈るあまり興奮状態、もしくは恍惚状態になり、自分の意思とは別に唇が震え、言葉を発する事柄を言います。コリントの教会ではそういう人のことを「神様から直接言葉を頂いて話しておられるんだ」と理解し「この人は神様と強く結びついているんだ。素晴らしい。私も出来たらいいな」って思っていたようです。

でも、我を忘れ、常軌を逸した「興奮状態」でしか神様と結びつくことが出来ないのであれば、それは現実逃避です。また心を高揚させ、登り詰めて恍惚状態になる異言は非常に個人的で他者性がありません。言い換えると、愛がない。神様を求める事、熱心になる事、それは尊い事です。でも、そこに他者への思い、愛がないのであれば、その熱心さには何の意味もない、とパウロは言うのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節には次のようにあります、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

イエス・キリストの事柄は、「神は、夜の星のように手の届かない遥か遠い先におられるのではなく、あなたの目の高さ、いやあなたが目を落としたその高さに、さらにあなたが躓き倒れたその目の高さにおられるよ」ということを教えてくれています。私達の悲しみの多い、悩みの多い、躓きの多いこの歩みのただ中にいて下さる、ということです。 (牧師:田中伊策)