「隠れたところに真実がある」マルコ9:33-37

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(35節)
「私を信じる、私に従うってことは、そのまま小さなものを受け入れる。小さな者に仕えるということなんだよ。信仰っていうのはね、そこにおいて表されてゆく事であって、信仰的熱心さだとか、奉仕の量だとか、社会的地位の高さだとか、そんなことじゃない」イエス様ははっきり言われた、というのです。けっこうすごい事を言っています。

信仰とは神様に対しての熱心ではなく、小さな者に対しての熱心だ、って。でも本当だと思うんですね。イエス様は時々そういわれています、マタイによる福音書5章23-24節「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」礼拝に行く途中で、誰かとケンカしたままだったな、と思ったら、捧げ物をいちど祭壇の前において、仲直りに行って、それから戻ってきて捧げなさい、って。

これって、捧げ物よりも捧げる心が大事だよ、って言われていますよね。教会は教会、生活は生活、神様は神様、私は私、そんな信仰に何の意味があるの?って言われていますよね。信仰というのは生活から現れる、日常からあふれ出すものじゃないかって。

幼稚園で時々、避難訓練をします。火事とか地震とか。でも大事なのは訓練ではなくて、実際にそういう時に訓練通りに行えるかどうか、ってことです。訓練して安心していてはダメなんです。私たちが礼拝をするのは、神と共に日常を生きるためです。大事なのは神様に熱心になるんじゃなくて、愛と共に日常を生きる事です。「神は愛です」って聖書に書いてあります。だから、愛を持って歩むとき、そこに私たちは信仰を携えている。それが問われているのです。逆に言うと私たちが日常をどう生きているかが、信仰ににじみ出て来るということです。(牧師・田中伊策)

「隠れたところに真実がある」マルコによる福音書9章33-37節