「来た 見た 知った」ヨハネ1:29-34

旧約聖書の世界で昔から守られてきた戒めの中に次のようなものがあります、『初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである』(出エジプト記34:19)。これはつまり「人であれ家畜であれ、最初の子(男の子・雄に限る)は神様のものだから捧げなくてはならない」という事になります。ただし、人の場合は一度神様の捧げはするけれど小羊と交換することが赦されていました。この「代価(小羊)を支払って(子の命を)買い取る」ことを「贖う(あがなう)」と言います。

バプテスマのヨハネはイエスが自分の方に来るのを見て『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)と言いますが、この「小羊」とは前述の贖いの小羊のことです。バプテスマのヨハネという人物は人々に「悔い改めよ」(人生の方向転換をせよ。神に向かいなさい)と迫り、それは『斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』(マタイ3:10)と脅しまがいの強さを見せています。ヨハネは「神に向かう」「神に近づく」事を人々に求めるのです。

しかしイエスは違ったのです。人々に対して神に向かう事を求めるのではなく、自ら人々の方へ向かわれたのです。ヨハネは人々に向かい、そして自分の方にも来るイエスを見て「私は人の視点で神を語っていた。神に向かって行く者(立派な行為をした者・正しくなった者)が救われる)。しかし、神の視点は違うことがイエスの姿から分かった。人間が神の方に向かうのではなく、まず神自らが来られ、私達の罪を自ら背負われることで救われるのだ。そして救われた者が神に向かって行くのだ」。

ヨハネはイエスが自らの方にこられるのを見て神の視点、神のまなざしを知ったのです。「世の罪を取り除く神の小羊」、私達がどれだけのことをしようとも、自分の罪を取り除く代価とは決してなり得ません。それは溺れている自分を自分で助けようとするような行為です。救いというのは人間の側の事柄ではなく、神の側の事柄であることをヨハネはイエスが来るのを見て知ったのです。(牧師:田中伊策)

「来た 見た 知った」ヨハネによる福音書1章29-34節