カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年9月28日「あなたは誰に仕えるか? 私は主に仕えます。」

 ヨシュアは、死を前にしてイスラエルの民をシケムに集め、アブラハムの召し出し、出エジプト、カナン定住までの歴史を振り返り、すべては神様の恵みによると示します。そして、ヨシュアは「主を畏れ、真心を込めて仕えなさい」と呼びかけ、「もし主に仕えたくないなら、他の神々を選びなさい」と迫ります。
 信仰は強制でなく、責任ある選びです。ヨシュア自身は「わたしとわたしの家は主に仕えます」と告白しました。民も主に従うと答えましたが、ヨシュアは「あなたたちは主に仕えることはできない」と戒めます。人間の意志は弱く、ペトロのように容易に躓くからです。だから偶像を取り除き、主に心を傾けることが必要です。
 ヨシュアの言葉は今の私たちにも響きます。主に仕えることは束縛ではなく、神の愛と導きに生きる自由であり、平安と祝福の道です。イエス・キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが選んだ」と言われました。神に選ばれた恵みを感謝し、私たちも「主に仕えます」と告白して歩んで行きましよう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月21日「逃れの町。それはイエス・キリスト」 

 人は誰しも、思わぬ過ちや失敗を犯し、「逃げたい、やり直したい」と願う時があります。旧約聖書に出てくる「逃れの町」は、そのような人のために神様が備えられた避け所でした。そこでは復讐から守られ、公正な裁きを受けられましたが、真の解放は大祭司の死を通して与えられました。
 この出来事は、イエス・キリストの十字架を指し示しています。イエス様は私たちの罪を身代わりに背負い、その死と復活によって赦しと新しい命を与えてくださいました。信仰とは条件付きで願うことではなく、「あなたに委ねます」と全てを明け渡すことです。私たちがイエス様を避けどころとするなら、どんな罪や弱さからも守られ、新しい歩みへと導かれます。
 さらに聖書は、私たち自身や教会が他者にとっての「逃れの町」となるように召されていると語ります。互いに裁き合うのではなく、赦し合い、共に生きる共同体となることが、福音に生きる姿です。イエス様が私たちを受け入れてくださったように、私たちも人を迎え入れる教会として歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月14日「主を信頼して、一歩を踏み出そう」

 イスラエルの民が約束の地に入るためには、増水したヨルダン川を渡らねばなりません。それは人間的には不可能なことでした。しかし、契約の箱を担ぐ祭司たちが、信仰をもって川に足を踏み入れたとき、水はせき止められ、人々は乾いた地を進みました。この出来事は「神の言葉を信じて一歩を踏み出す」信仰の歩みを示しています。契約の箱が先頭に立つことは、神ご自身と御言葉が導かれていることを意味し、民は自分の思いではなく神の御言葉に従うようにと教えられています。
 私たちの人生にも越えられそうにない「ヨルダン川」があります。しかし、主イエス様は、「わたしはあなたと共にいる」と約束され、共に道を開いてくださいます。信仰とは目に見えるものに依らず、御言葉を信じて踏み出すことです。敬老の日にあたり、ここまで信仰をもって歩まれた兄姉に感謝するとともに、これからも主に信頼して新たな一歩を、共に踏み出して行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月7日「わたしはあなたと共にいる」

 ヨシュア記は単なる歴史書ではなく、神様の御言葉を告げる「預言書」です。モーセの後継者として立てられたヨシュアは、民を約束の地へ導く大きな使命を負いましたが、モーセとの比較や民の反抗、神の声を聞き続けられるかという不安に包まれていました。そんな彼に神様は繰り返し「強く、雄々しくあれ。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」と励まされました。これは私たちへの御言葉でもあります。
 人生には、試練や困難があり、恐れや不安に押しつぶされそうになる時があります。しかし、神様はすでに救いと勝利をイエス・キリストを通して約束してくださっています。だから、私たちは信仰をもって踏み出すことができます。その時に大切なのは御言葉に生きることです。「律法の書を昼も夜も口ずさみ、忠実に守りなさい」とあるように、神様の御言葉を心に刻み、日々の歩みに生かす時、神様の約束に支えられ、どんな困難の中でも導かれていきます。神様の約束を信じ、主イエス様が共におられる確信をもって歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月31日「平和に関する信仰的宣言」を読む④

 「平和宣言」の第三部は、「主イエスに従う私たちは、もはや殺さない」と告白し、十戒の第五戒から第十戒を取り上げて、赦され、愛されて生かされている者は、他者を赦し、愛し、共に生きるようにと招きます。
 十戒の「父母を敬え」は、弱い人を大切にし、共に歩むことを教えます。戦争で最も犠牲になるのは高齢者や子ども、障がいを持つ人々です。命には上下がなく、この人々を「役に立たない」と切り捨てる価値観を拒むことが平和の第一歩です。「殺してはならない」は、命を奪うだけでなく、心の中で人を軽蔑し否定することも含みます。イエス様は敵意という隔ての壁を取り壊されました。だから私たちは戦争や軍備だけでなく、敵意そのものを退けるよう招かれています。さらに「盗んではならない」は分かち合い、「偽証してはならない」は真実に生き、「むさぼってはならない」は欲を離れ感謝して生きることを示します。
 私たちは弱く、愛する者を守るために暴力を正当化したくなる心を抱えます。しかし、イエス様は暴力を許されません。私たちは、罪を抱えながらも神様に従い、日常の怒りや軽蔑を手放して平和を選び取ることが大切です。イエス様は共におられ、平和を完成してくださいます。私たちは、「主よ、わたしを平和の器とならせてください」と祈りつつ、一歩ずつ平和の道を歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月24日「平和に関する信仰的宣言」を読む③

 「平和宣言」の第二部は、「私たちは主イエスのほか何ものにも服従しない」と告白します。主に従うことは、この世の冨や権力や国家などの偶像から自由にされることを意味します。
 十戒の第二戒は偶像を造ってはならない、第三戒は主の名を悪用してはならない、第四戒は安息日を覚えて聖とせよ、と命じています。これらは「神ならぬものを神としない」ことを教えています。私たちが偶像に心を奪われるとき、神様はねたむほどの愛をもって私たちを呼び戻されます。歴史の中で人は神の名によって戦争や暴力を正当化してきました。しかし神様はそのような名の使われ方を拒まれます。神の名は、愛と赦しと平和をもたらすためにあります。
 「平和宣言」は、「礼拝は主イエスへの服従であり、この世に対する断念である」と語ります。礼拝を第一とするとき、私たちは憎しみや不安から解放され、平和を実感し、平和をつくる者として歩み出す力が与えられます。私たちは国家や富や権力ではなく、ただ主イエスに従うとき、赦しと平和の道が開かれます。礼拝の恵みを喜びつつ、主に従う自由と平和をもって歩んでまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月17日「「平和に関する信仰的宣言」を読む②」

 毎年8月15日の「敗戦の日」になると、ヴァイツゼッカー旧西ドイツ大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目(原文のママ)となる」という言葉を思い起します。今日は、歴史を覚えつつ、連盟の「平和に関する信仰的宣言」から十戒第一戒「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」を学びます。
 第一戒は、神様が先に私たちを救ってくださったことに応える生き方を求めます。そして、平和宣言は「信じる者は服従へと召され、主イエスへの服従こそが、私たちを自由にする」と告白します。主イエス様の服従は、束縛のようで、実は偶像や悪しき価値観からの解放なのです。取税人レビがイエス様に従って自由を得たように、私たちもイエス様に服従するとき、お金、地位、名誉など現代の偶像から解き放たれて自由になります。
 イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と語って、ただ神様に頼る者こそ真の豊かさを得ると教えます。平和とは「神の御心が地になる」ことです。私たちは、そのために日々、主なる神様のみを拝して、神様の御心を祈り求めながら歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月10日「「平和に関する信仰的宣言」を読む①」

 今週15日、敗戦から80年を迎えます。この80年間、日本は戦争の惨禍から守られてきましたが、世界では今も紛争が絶えません。そのような中、私たちは、「平和」とは何かを聖書から学んで歩んで行くことが求められています。日本バプテスト連盟の「平和に関する信仰的宣言」は、単なる政治的声明ではなく、イエス・キリストによって解放され生かされた者の信仰告白であり、「戦争や暴力に加担することはできない」という生き方を告白するものです。
 平和宣言は、十戒を土台にし、律法は救いの条件ではなく、救われた者が恵みに応えて歩む道標であることを示しています。律法主義は否定されますが、律法そのものは神の意思として大切にされるべきであり、福音と一体です。赦された者は赦し、愛された者は愛するように、恵みは行動を生みます。「できない」という言葉は、人間の決意ではなく、キリストへの従順から出る告白です。
 教会は救われた者の群れとして、平和をつくりだす使命を担っています。今こそ教会は「十戒を死文と化してはならない。教会は十戒を生きる」との宣言に応えて、「平和をつくりだす人」として歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月3日「キリストによる平和」 

 今年は敗戦から80年です。世界では今も戦争が続き、人々の苦しみは絶えません。聖書は、対立の原因を「罪」と語ります。人が神様から離れることで、他者との関係が壊れ、敵意が生まれるからです。そして、お互いの間には、「敵意という隔ての壁」が築かれることになります。私たちも、自らの「正しさ」を振りかざすことで、見えない壁を築いていないでしょうか。そのような私たちのために、イエス様は、対立するものの間にある「敵意という隔ての壁」を、ご自身の十字架によって取り壊され、ご自身の命をもって和解へと導きます。そして、イエス様は、「平和の君」として、神様との正しい関係を回復してくださるのです。
 キリストは、敵意を越えて私たちを一つとし、教会という神の家族へと招いてくださいます。私たちは、キリストを「かなめ石」とする聖なる神殿として組み合わされ、真の平和に生きる存在へと変えられていくのです。
この8月、私たちはイエスの平和に応え、小さな一歩として、祈り、優しさ、赦しをもって平和を実践してまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年7月27日「あなたは、誰の声に従っていますか?」 

 私たちは日々、恐れや欲望に揺れながら、「誰の声に従うのか」という選択を迫られています。バラムとバラクの物語は、その問いに向き合う私たちに多くのことを教えくれます。
 モアブ王バラクは、神の民イスラエルを恐れ、占い師バラムに呪いを依頼します。一方、バラムは、初めは神の御心に従うものの、金銀に心を動かされ、欲と信仰の間で揺れ動きます。神様はそんなバラムを見捨てず、ロバを通して御心を伝え、彼の目を開かれました。
 この出来事は、私たちが誤った方向へ進んでしまう時、神様は思いがけない方法で語りかけ、正しい道へと導いてくださることを教えています。最終的にバラムは、人の期待や恐れではなく、神様の御心に従ってイスラエルを祝福します。たとえ周囲の声がどれほど大きくても、神様の語りかけに耳を傾けることが、真に祝福された歩みへの道です。私たちもまた、さまざまな声に囲まれています。しかし、心静かに神様の御声に耳を傾け、「主が語られることだけを語る」ものでありたいと願います。(牧師 篠田 裕俊)