カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年11月2日「恵みを知る者の責任」 

聖書 アモス書2章6~16節

 アモスは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者として生きていた普通の人でした。その彼を、神様は召されて、北イスラエルに向けて預言しました。当時のイスラエルは繁栄の中にありながら、不正と搾取が横行し、貧しい者が踏みにじられていました。人々は礼拝に熱心でありながら、日常では神の正義を無視していたのです。アモスはそのような民に向かって、「神様の恵みを知りながら背いた」と厳しく語りました。神様はイスラエルを愛し、エジプトから救い出し、導いてこられた方です。その恵みを忘れたことが罪の根でした。
 神の民には「恵みを知る者の責任」があります。信仰は日曜日の礼拝だけでなく、平日の生活の中にこそ現れなければなりません。隣人を愛し、正直に歩むことが、神様の恵みに応える生き方です。神様の裁きは怒りではなく、愛の痛みであり、悔い改めへの招きです。イエス様は、今日も「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけておられます。その招きに応えるとき、赦しと回復、そして新しい希望が与えられます。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月26日「ヨナに問われた神の愛」 

聖書 ヨナ書4章1~11節

 ヨナは、神様がニネベの人々を赦されたとき、深く怒りました。敵国アッシリアへの裁きを願っていた彼にとって、神様の憐れみは受け入れがたいものだったからです。しかし神様は、とうごまの木を通してヨナに語られます。自分が育てもしなかった木を惜しむなら、どうして神が十二万人もの命を惜しまれないだろうかと。
 人はしばしば、自分の正義に囚われ、他者を裁くことに熱心になります。しかし神様の心は、滅ぼすことではなく、生かすことにあります。神様の憐れみは、ふさわしい者だけでなく、私たちが「赦されるべきでない」と思う者にも注がれているのです。
 ヨナの物語は、私たちの姿でもあります。思い通りにならない現実の中で怒りや不満を抱える私たちに、神様は「あなたはなぜ怒るのか」と優しく問いかけられます。神様の憐れみは、怒りを越え、赦しへと私たちを導いてくださるのです。
 神様は、「わたしはだれの死をも喜ばない。立ち帰って生きよ」と言われます。なにより神様は、独り子であるイエス様をお与えになったほどに、この世を愛され、イエス様を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得ることを願っておられるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月19日「失敗の先にある神様の希望」

聖書 ヨナ書3章1~10節

 ヨナ書3章は、「主の言葉が再びヨナに臨んだ」という言葉から始まります。神様の命令を拒み逃げたヨナに対して神様は、あきらめず再び語りかけられたのです。この「再び」という言葉には、神様の限りない赦しと希望が込められています。現代社会は「失敗を恐れる社会」となっていますが、神様は失敗の中にも可能性を見出し、「もう一度やり直そう」と語られるのです。
 ヨナは、その言葉に従い、ニネベの人々に対して「あと四十日すれば、ニネベは滅びる」と叫びます。すると、人々は身分を問わず断食し、悪の道を離れて悔い改めました。神様はその心を見て「思い直され」、滅びをやめられました。この出来事は、神様が裁きよりも赦しを喜ばれるお方であることを示しています。
 神様の愛は敵にさえ及び、どんな人にも救いが与えられます。私たちが失敗の中で立ち止まっても、神様は「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と語られます。神様の「再び」という呼びかけと「思い直される」憐れみは、過去の過ちを超えて新しい希望へと導く恵みの言葉です。私たちはその声に「はい」と応えて歩み出すとき、失敗の先にある神様の希望を生きる者とされるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月12日「救い主は、主にこそある」

聖書 ヨナ書2章1~11節

 ヨナ書2章は、神に背いて逃げたヨナが、死の淵で神の憐れみに出会う物語です。ヨナは海に投げ込まれ、絶望の中で「陰府」に沈みながらも、主に祈り、助けを求めます。主は大魚を備え、ヨナの命を救われました。
 暗闇の中でヨナは、自分が主から見捨てられたのではなく、主が追いかけ、救い出してくださったことを悟ります。そして「救いは、主にこそある」と感謝の祈りをささげます。
 私たちもまた、人生の暗闇の中で不安と孤独を感じる時がありますが、イエス・キリストは「ヨナのしるし」として死と復活を通し、今も生きて働かれる救い主です。イエス様は、逃げる者、傷つく者を見捨てず、憐れみをもって導かれます。どんな苦しみの中でも、イエス様を信じ、希望をもって歩む時、私たちは確かに主の救いの御手の中にあります。救いは、主にこそあります。主イエス・キリストの愛と憐れみを信じて、希望をもって歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年10月5日「逃げても追いかけてくださる神様」

聖書 ヨナ書1章1~16節

 ヨナ書は、神の召命から逃げるヨナの姿を描いています。ヨナは、神様から敵国アッシリアの都ニネベに行き、悔い改めを呼びかけよと命じられました。しかしヨナは「異邦人に救いなどあり得ない」と考え、その命令から逃れるためタルシシュ行きの船に乗ります。けれども神様は嵐を起こし、ヨナは人々によって海に投げ込まれます。ここで示されているのは、第一に、私たちもまた神の思いより自分の思いを優先し、神から逃げてしまう存在であること。第二に、その不従順は自分だけでなく周囲をも苦しめるということ。そして第三に、神はなおも見捨てず、回り道を通してでも立ち返らせてくださる憐れみ深いお方であるということです。
 嵐も魚に飲み込まれることも、実は裁きではなく「救いのための恵みの手段」でした。私たちはどこに逃げても神様から隠れることは出来ません。むしろ神様は追いかけ、捕らえ、再び立たせてくださるのです。イエスは「疲れた者、重荷を負う者はだれでも、わたしのもとに来なさい」と招かれました。私たちもその招きに応え、神の憐れみのもとに立ち返りましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月28日「あなたは誰に仕えるか? 私は主に仕えます。」

 ヨシュアは、死を前にしてイスラエルの民をシケムに集め、アブラハムの召し出し、出エジプト、カナン定住までの歴史を振り返り、すべては神様の恵みによると示します。そして、ヨシュアは「主を畏れ、真心を込めて仕えなさい」と呼びかけ、「もし主に仕えたくないなら、他の神々を選びなさい」と迫ります。
 信仰は強制でなく、責任ある選びです。ヨシュア自身は「わたしとわたしの家は主に仕えます」と告白しました。民も主に従うと答えましたが、ヨシュアは「あなたたちは主に仕えることはできない」と戒めます。人間の意志は弱く、ペトロのように容易に躓くからです。だから偶像を取り除き、主に心を傾けることが必要です。
 ヨシュアの言葉は今の私たちにも響きます。主に仕えることは束縛ではなく、神の愛と導きに生きる自由であり、平安と祝福の道です。イエス・キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが選んだ」と言われました。神に選ばれた恵みを感謝し、私たちも「主に仕えます」と告白して歩んで行きましよう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月21日「逃れの町。それはイエス・キリスト」 

 人は誰しも、思わぬ過ちや失敗を犯し、「逃げたい、やり直したい」と願う時があります。旧約聖書に出てくる「逃れの町」は、そのような人のために神様が備えられた避け所でした。そこでは復讐から守られ、公正な裁きを受けられましたが、真の解放は大祭司の死を通して与えられました。
 この出来事は、イエス・キリストの十字架を指し示しています。イエス様は私たちの罪を身代わりに背負い、その死と復活によって赦しと新しい命を与えてくださいました。信仰とは条件付きで願うことではなく、「あなたに委ねます」と全てを明け渡すことです。私たちがイエス様を避けどころとするなら、どんな罪や弱さからも守られ、新しい歩みへと導かれます。
 さらに聖書は、私たち自身や教会が他者にとっての「逃れの町」となるように召されていると語ります。互いに裁き合うのではなく、赦し合い、共に生きる共同体となることが、福音に生きる姿です。イエス様が私たちを受け入れてくださったように、私たちも人を迎え入れる教会として歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月14日「主を信頼して、一歩を踏み出そう」

 イスラエルの民が約束の地に入るためには、増水したヨルダン川を渡らねばなりません。それは人間的には不可能なことでした。しかし、契約の箱を担ぐ祭司たちが、信仰をもって川に足を踏み入れたとき、水はせき止められ、人々は乾いた地を進みました。この出来事は「神の言葉を信じて一歩を踏み出す」信仰の歩みを示しています。契約の箱が先頭に立つことは、神ご自身と御言葉が導かれていることを意味し、民は自分の思いではなく神の御言葉に従うようにと教えられています。
 私たちの人生にも越えられそうにない「ヨルダン川」があります。しかし、主イエス様は、「わたしはあなたと共にいる」と約束され、共に道を開いてくださいます。信仰とは目に見えるものに依らず、御言葉を信じて踏み出すことです。敬老の日にあたり、ここまで信仰をもって歩まれた兄姉に感謝するとともに、これからも主に信頼して新たな一歩を、共に踏み出して行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年9月7日「わたしはあなたと共にいる」

 ヨシュア記は単なる歴史書ではなく、神様の御言葉を告げる「預言書」です。モーセの後継者として立てられたヨシュアは、民を約束の地へ導く大きな使命を負いましたが、モーセとの比較や民の反抗、神の声を聞き続けられるかという不安に包まれていました。そんな彼に神様は繰り返し「強く、雄々しくあれ。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」と励まされました。これは私たちへの御言葉でもあります。
 人生には、試練や困難があり、恐れや不安に押しつぶされそうになる時があります。しかし、神様はすでに救いと勝利をイエス・キリストを通して約束してくださっています。だから、私たちは信仰をもって踏み出すことができます。その時に大切なのは御言葉に生きることです。「律法の書を昼も夜も口ずさみ、忠実に守りなさい」とあるように、神様の御言葉を心に刻み、日々の歩みに生かす時、神様の約束に支えられ、どんな困難の中でも導かれていきます。神様の約束を信じ、主イエス様が共におられる確信をもって歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年8月31日「平和に関する信仰的宣言」を読む④

 「平和宣言」の第三部は、「主イエスに従う私たちは、もはや殺さない」と告白し、十戒の第五戒から第十戒を取り上げて、赦され、愛されて生かされている者は、他者を赦し、愛し、共に生きるようにと招きます。
 十戒の「父母を敬え」は、弱い人を大切にし、共に歩むことを教えます。戦争で最も犠牲になるのは高齢者や子ども、障がいを持つ人々です。命には上下がなく、この人々を「役に立たない」と切り捨てる価値観を拒むことが平和の第一歩です。「殺してはならない」は、命を奪うだけでなく、心の中で人を軽蔑し否定することも含みます。イエス様は敵意という隔ての壁を取り壊されました。だから私たちは戦争や軍備だけでなく、敵意そのものを退けるよう招かれています。さらに「盗んではならない」は分かち合い、「偽証してはならない」は真実に生き、「むさぼってはならない」は欲を離れ感謝して生きることを示します。
 私たちは弱く、愛する者を守るために暴力を正当化したくなる心を抱えます。しかし、イエス様は暴力を許されません。私たちは、罪を抱えながらも神様に従い、日常の怒りや軽蔑を手放して平和を選び取ることが大切です。イエス様は共におられ、平和を完成してくださいます。私たちは、「主よ、わたしを平和の器とならせてください」と祈りつつ、一歩ずつ平和の道を歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)