カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2026年2月15日「パンが一つしかない舟の中で」

聖書 マルコによる福音書 8章14~21節

 私たちは、「忘れ物」をすると不安に陥ります。弟子たちも舟の中でパンを忘れ、一つしかないことに不安を抱きました。しかし本当の問題はパンの数ではなく、誰が舟に共におられるかを見失っていたことでした。弟子たちは、パンを一つしか持ってこなかったという失敗に心を奪われ、すぐ隣にイエス様がおられることを見失っていたのです。
 イエス様が警告された「ファリサイ派とヘロデのパン種」とは、律法主義と世俗的現実主義という、信仰を内側から腐らせる態度です。イエス様は彼らに問いかけ、体験した恵みを思い出させることで、「すべてを満たす主が今も共にいる」ことを示されます。
 私たちも人生の不足の中で、しるしを求めてしまいます。しかし、神様がすでに与えてくださった最大のしるしは、イエス・キリストの十字架と復活です。イエスの「まだ悟らないのか」という言葉は、叱責ではなく、「わたしをもっと頼りなさい」という慈しみ深い招きです。
 人生という舟の中にパンが一つしかなくても、死に打ち勝たれた主が共におられるなら、私たちはすでに満たされています。目に見える欠けに惑わされるのではなく、共に歩んでくださる主を見上げ、その恵みに信頼して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年2月8日「神のものとして生きる自由」 

聖書 マルコによる福音書 7章1~13節

 今日の聖書は、イエス様が「神の掟」と「人間の言い伝え」の違いをはっきり示された場面です。ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」という宗教的儀式を重んじ、手を洗わずに食事をする弟子たちを批判しました。彼らは神を敬う情熱から律法(ルール)を細分化しましたが、いつの間にか、その決まりを守ること自体が目的となり、それが「自分を正しいとし、他者を裁く基準」となり、神の心から遠ざかっていたのです。
 イエス様はこれを「人間の言い伝え」と呼び、外見的な清さよりも心の在り方を問われました。弟子たちの中には手を洗う者も洗わない者もいたと推測されますが、イエス様はその自由を認められました。それは、軍隊のような画一化ではなく、各々が神の前に判断する自由な集団であったことを示しています。
 私たちはしばしば、他人の目や社会の評価を気にし、本質的には「どちらでもよいこと」に縛られて生きています。しかし、真の自由は、自分の好き勝手に振る舞うことではなく、自分を神に献げられたもの(コルバン)として、神の支配下に置くことで得られます。私たちが「自分のもの」であることをやめ、「神のもの」として生きる時、自己正当化や他者への裁きから解放されます。自分の努力ではなく、キリストの十字架の愛によって「主のもの」とされた恵みを受け入れ、神の御心を見つめて自由に歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊) 

2026年2月1日「主のまなざしの中で歩む」 

聖書 マルコによる福音書5章25~34節

 今日の聖書箇所は、12年間出血が止まらない病に苦しんだ女性と、娘を死から救おうとする会堂長ヤイロの二人の姿を通し、救い主イエスの慈しみを描いています。ヤイロは地位を捨ててイエス様の足元にひれ伏し、一方で女性は、病ゆえの孤独と絶望の中で「服に触れるだけで癒される」という一縷の望みをかけ、群衆に紛れて後ろからイエス様の服に触れました。
 イエス様は、大勢に囲まれながらも、必死の思いで手を伸ばした彼女を隠れた場所から呼び出し、「生きた交わり」へと招かれます。彼女の行動は迷信的で不完全なものだったかもしれません。しかし、イエス様は、その切実な思いを「あなたの信仰があなたを救った」と認めて病だけでなくすべての苦しみから解放されました。
 イエス様は、私たちに対しても、不完全で揺れ動く信仰のままに手を伸ばすことを待っておられます。私たちが悩みや罪の中で隠れていても、私たちを見つけ出し、「安心して行きなさい」と送り出してくださいます。その歩みは、病や老い、死という鎖を解き放ち、救いと復活の希望の中に生かしてくださるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月25日「主はあなたを蒔き、耕される」

聖書 マルコによる福音書4章1~9節

 マルコ福音書の「種を蒔く人のたとえ」は、分かりやすく教えるための話しではなく、聞く者の生き方と信仰を問う話しです。ここで取り上げられた四つの土地(道端、石だらけ、茨、良い土地)は、私たちの心の状態を指しています。しかしイエス様は、さらに踏み込みで、私たちは「土地」であると同時に、神様によって世界に蒔かれた「種」でもあると言われます。イエス様は、私たちの心に御言葉の種を蒔くだけでなく、耕し、整え、実を結ぶまで関わり続けてくださるお方です。最初から良い土地である人はいません。イエス様によって整えられて、豊かな実りへと導かれるのです。
 イエス様は、「私があなたを良い土地にする」と招かれています。これこそが福音です。自分の状態に一喜一憂するのではなく、今も心を耕し続けてくださるイエス様を信頼し、人生を委ねて歩むとき、三十倍、六十倍、百倍という想像を超えた神様の祝福の収穫が約束されているのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月18日「安息日は、人のために」

聖書 マルコによる福音書2章23節~3章6節

安息日は、神様が天地創造を終え、完成した世界を祝福されたことに由来します 。それは人が神様の前に立ち帰り、救いと解放を喜び、命を回復させるための日でした。しかし、イエス様の時代は、安息日を「命を守る戒め」から、人々を監視し縛り付ける「39種類の規則」へと変えてしまっていました。
今日の聖書箇所で、イエス様は二つの出来事を通して安息日の真意を語られます。一つは、空腹のために麦の穂を摘んだ弟子たちの姿です。イエス様は「安息日は人のために定められた」と説き、規則よりも人間の命が優先されるべきであることを示されました。もう一つは、会堂で手の萎えた人を癒された出来事です。人々は「安息日に癒し(労働)を行うか」とイエス様を陥れようとする中で、イエス様は、安息日に「善を行うこと、命を救うこと」の正当性を宣言されました 。
安息日の主であるイエス様は、今も私たちに「手を伸ばしなさい」と招いておられます。日曜日の礼拝は、規則を守るためではなく、復活の主による新しい命を喜び、主の愛に触れて心身を回復させるためです。正しさで人を裁くのではなく、主の愛に応えて、命を慈しみ、善を行う一週間へと歩み出しましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月11日「今、この時を信じて歩み出す」

聖書 マルコによる福音書2章1~12節

 マルコ福音書2章1〜12節は、屋根を壊してまで中風の友人をイエス様のもとへ運んだ四人の男たちの姿を通し、信仰の本質を問いかけます。イエス様が活動の核としたのは、奇跡そのものではなく「御言葉」を語ることでした 。特に「時は満ち、神の国は近づいた」という宣言は、救いを後回しにできない緊急事態であることを示しています。
 四人の友人たちは、常識外れの行動を通して、この「今しかない」という主の招きに必死に応答しました。イエス様は彼らの行動の中に「信仰」を見出し、単なる病の癒しに先立ち「罪の赦し」を宣言されました。「罪の赦し」とは、神様との隔てが取り払われ、孤独から解放されて新しい関係に生きることです 。イエス様は癒しの奇跡を通して、ご自身に罪を赦す権威があることを証明されました。
 私たちは、具体的な問題の解決だけを求めがちですが、主はそれ以上に、私たちが罪を赦され、神様と共に歩む新しい人生を今、決断して始めることを求めておられます。そして、十字架で私たちの罪を背負われたイエスと共に歩む喜びこそが、福音の核心であると結んでいます。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月4日「新しい一年、福音という光の中で」

聖書 マルコによる福音書 1章1~11節

 新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。福音とは、状況が少し良くなるという知らせではなく、神様ご自身が人間の歴史に介入し、赦しと十字架によって救いを成し遂げられたという知らせです。
 洗礼者ヨハネは、荒れ野で悔い改めを宣べ伝え、水によるバプテスマを授けます。悔い改めとは後悔ではなく、神様から背を向けていた生き方の方向転換です。イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたとき、天が裂け、聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子」という神の声が響きます。
 ヨハネのバプテスマが神様に立ち帰る招きであったのに対し、イエス様のバプテスマは、十字架と復活を経て、聖霊と新しい命を賜物として与えるものです。バプテスマによって私たちは神の子とされ、神様の愛の中で生きる者とされます。これこそが、今も私たちに与えられている福音なのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月28日「平和のうちに、主を待ち望む」

聖書 ルカによる福音書2章21~38節

 2025年の歩みが、主イエス様の導きによって守られたこと感謝します。イエス様は神の御子でありながら律法の下に生まれたのは、私たちと同じ制約や苦しみの中に降りてこられて「真の人」となるためでした。
 シメオンは幼子イエスを受け入れることで「救い」を見、平和のうちに去る希望を与えられます。一方アンナも、長い人生の苦難の中で救いを待ち続けました。救い主を受け入れる者には、死の影や時代の混乱をも超える「平和」が与えられます。現代の私たちは結果を急ぎ、待つことを恐れがちですが、救いは人の焦りによって完成するものではありません。キリストの十字架と復活に結ばれている私たちは、先が見えない時代にあっても、主と共に希望をもって待ち望み、平和のうちに歩む者とされているのです。
 主イエス様は、常に私たちと共に歩んでくださっています。新しい一年も、恐れに追われるのではなく、復活の希望を胸に、平和の主であるイエス様と共に一歩ずつ歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月21日「インマヌエルのクリスマス」

聖書 マタイによる福音書 1章18~25節

 クリスマスおめでとうございます。最初のクリスマスは、ヨセフが人生の岐路に立ち、孤独な決断を迫られる中で始まりました。婚約者マリアの懐妊という受け入れがたい現実に、ヨセフは「正しい人」として悩み抜きます。彼はマリアを守るために密かに縁を切ろうとしますが、それは神様の前に一人で立つ苦渋の選択でした。
 しかし、神様は、悩み苦しむヨセフに天使を送り、「恐れず妻マリアを迎えなさい」と語りかけます。信仰とは、すべての答えが出てから動くことではなく、恐れを抱えたまま神様の御言葉に「はい」と応え、神様に委ねることです。ヨセフの静かな従順とマリアの身を委ねる信仰を通して、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる救い主イエス様が誕生しました
 神様は今も、不安や孤独の中にいる私たち一人ひとりに「恐れるな。私は共にいる」と語りかけておられます。クリスマスは、何かを成し遂げる日ではありません。神様の愛と希望を感謝して受け取る日です。この救い主が、今日あなたの心の中に誕生することを願っています。(牧師 篠田 裕俊)

2025年12月17日「神様はひとりにされない -マリアの讃歌-」

聖書 ルカによる福音書1章39節~58節

 マリアとエリサベトは、共に神様の言葉を信じつつも、誰にも相談できない不安と孤独の中に置かれていました。しかし神様は二人を出会わせ、不安を喜びへと変えられました。マリアがエリサベトを訪ねた時、胎内の子は喜び躍り、エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福します。この出会いにより、孤独は破られ、二人は互いの存在を通して神様の慰めを深く味わいました。
 励ましに満たされたマリアの心は、「わたしの魂は主をあがめ」と歌うマリアの讃歌(マグニフィカト)となります。そこには、弱い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満たすという神の愛の逆転が示されています。神様の救いは強い者からではなく、弱い者、貧しい者から始まるのです。
 神様は今も孤独や痛みを抱える者に目を留め、支えとなる人を備えてくださいます。教会もまた、神の名によって集う者が互いを支え合い、喜びを分かち合う場所です。待降節の今、神様が「あなたをひとりにしない」と語られる恵みに耳を傾け、やがて来るイエス・キリストの誕生を、喜びをもって迎えましょう。(牧師 篠田 裕俊)