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2026年4月5日 「先に行って待っていてくださる主」

聖書 マルコによる福音書 16章1~8節

 今日は、イエス様の復活をお祝いするイースターです。復活の朝、女性たちは大きな石で塞がれたイエス様の墓へ向かいました。この石は、私たちの力では動かせない困難や不安の象徴です。しかし彼女たちが着いたとき、石は既に神の手で転がされていました。神様は私たちの悩みよりも先に働いてくださるのです。
 御使いは、イエス様が復活して「ここにはおられない」こと、そして弟子たちより先に「ガリラヤ」へ行かれることを告げます。ガリラヤは弟子たちの故郷であり、宣教の原点です。しかしそこは、イエス様を見捨てた失敗と挫折を抱えて帰る場所でもあります。
 イエス様は彼らを責めるためではなく、「ここから新しく始めよう」と先回りして待っておられるのです。たとえ私たちが恐れや不安で立ちすくんでいても、イエス様は先に行って待っていてくださいます。復活の主に出会うとき、人生は何度でもやり直せます。新年度も主の光に照らされ、御言葉と共に歩んでまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年3月29日 「絶望の闇に射す希望の光」

聖書 マルコによる福音書15章33~41節

 2025年度の歩みが、神様の導きと皆様の祈りとお支えによって守られたことを感謝いたします。
 今週は受難週です。イエス様の受難の日に起こった出来事を通して、十字架の意味を見つめたいと思います。受難日の午後、全地を覆った闇は、人間の残酷さや身勝手さといった「罪の闇」そのものであり、その上に臨んだ神の裁きを象徴しています。そしして、イエス様の「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、私たちの罪と苦しみをすべて背負われたゆえの叫びです。この十字架は単なる悲劇ではなく、人間の罪の現実と、それを担われたキリストの愛がここに示されています。
 百人隊長は、なぜ「本当にこの人は神の子であった」と告白したのでしょうか。イエス様の十字架を見続けた彼は、神様の働きに圧倒されて、自分を委ねたのでしょう。このように、十字架は人の心を変える力を持っています。私たちもまた、イエス様の十字架の前に立ち、自分の罪と向き合い、赦しを受け取るよう招かれています。イエス様は遠い存在ではなく、苦しみのただ中に共におられるお方です。
 イエス様の受難の出来事は、私たち一人ひとりへの愛の出来事です。イエス様は、「わが神」と呼びかけ、命を捨ててまで私たちを愛してくださっています。その愛に包まれて、希望のイースターへと共に歩んでまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年3月8日「誰のものとして生きるのか」 

聖書 マルコによる福音書 12章13~17節

 イエス様は「皇帝に税金を納めるべきか」という問いを受けます。それは単なる税金の問題ではなく、「神に従うのか、それとも皇帝に従うのか」という信仰の根本を問う罠でした。もし「納めるな」と言えば反逆者とされ、「納めよ」と言えば民衆の支持を失う、巧妙な問いだったのです。
 しかしイエス様はデナリオン銀貨を示し、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。ここで問われているのは、私たち自身は誰のものなのかということです。聖書は、人間は神のかたちに造られたと語ります。ですから、銀貨が皇帝の肖像によって皇帝のものであるなら、神様のかたちを刻まれた私たちは神様のものなのです。
 そして、「神のものは神に返しなさい」とは、人生の一部を神様に捧げるという意味ではありません。私たちの命も時間も人生もすべて神様から与えられたものであり、自分自身を神様にお返しして生きることが信仰なのです。しかし人間は、自分の人生を神様から奪い取り、自分を主人として生きてきました。その罪の中にある私たちを取り戻すために、イエス・キリストは十字架へと進まれました。十字架とは、神のものを神様のもとへ取り戻す神の愛なのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年3月1日「先頭を歩まれる主に従って」

聖書 マルコによる福音書10章32~45節

 受難節(レント)の歩みが始まる中、聖書はエルサレムでの苦難と死に向かって先頭に立って進まれるイエス・キリストの姿を映し出します。弟子たちは主の三度目の受難予告を聞きながらも、その真意を理解せず、主が栄光を受けられる際の地位を巡って争っていました。特にヤコブとヨハネは、主の右と左の座を求めますが、主は「自分が何を願っているか分かっていない」と諭されます。
 なぜなら、イエス様にとっての「栄光の座」とは、世俗的な玉座ではなく、呪われた「十字架」だったからです。主が飲もうとされる「杯」や受ける「洗礼」とは、全人類の罪を贖うための神の裁きと苦しみであり、主は仕えられるためではなく、多くの人の身代金として自らの命を献げるために来られました。
 私たちは信仰生活において、平安や成功という「勝利と栄光」を求めがちですが、キリストに従う道の本質は、主の徹底的な「仕え」の姿にあります。弟子たちが後に殉教の苦しみをも辞さず、隣人に仕える者へと変えられたように、私たちもまた、自分を低くして互いに仕え合う群れへと招かれています。(牧師 篠田 裕俊)

2026年2月22日「山を下り、主と共に歩む」

聖書 マルコによる福音書 9章2~13節

 イエス様は十字架と復活を予告された後、ペトロたち三人を連れて山に登られると、光り輝く姿に変えられて神の栄光を現わされました。そこに現れたモーセとエリヤは、律法と預言がイエス様において成就することを示しています。それを目の当たりにしたペトロは、「仮小屋を建てる」ことを提案します。それは、これから始まるイエス様の苦難を避け、自分にとって都合の良い栄光だけを享受したいという願いでもありました。
 しかし、神様は「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、ただイエス様の御言葉に従うことを命じます。雲が消えた後に残されていたのは、いつもの見慣れたイエス様でした。イエス様は、山を下り、苦難と十字架の道を歩まれます。
 礼拝は、私たちが神様の栄光を仰ぐ「高い山」であり、そこで受けた恵みを、日常の歩みへと携えていくためのものです。私たちはすべてを理解してから従うのではなく、分からなくてもイエス様の御言葉を心に留め、十字架を背負って共に歩みます。イエス様は、今も私たちと共におられ、苦難の中にあっても復活の希望をもって導いてくださいます。(牧師 篠田 裕俊)

2026年2月15日「パンが一つしかない舟の中で」

聖書 マルコによる福音書 8章14~21節

 私たちは、「忘れ物」をすると不安に陥ります。弟子たちも舟の中でパンを忘れ、一つしかないことに不安を抱きました。しかし本当の問題はパンの数ではなく、誰が舟に共におられるかを見失っていたことでした。弟子たちは、パンを一つしか持ってこなかったという失敗に心を奪われ、すぐ隣にイエス様がおられることを見失っていたのです。
 イエス様が警告された「ファリサイ派とヘロデのパン種」とは、律法主義と世俗的現実主義という、信仰を内側から腐らせる態度です。イエス様は彼らに問いかけ、体験した恵みを思い出させることで、「すべてを満たす主が今も共にいる」ことを示されます。
 私たちも人生の不足の中で、しるしを求めてしまいます。しかし、神様がすでに与えてくださった最大のしるしは、イエス・キリストの十字架と復活です。イエスの「まだ悟らないのか」という言葉は、叱責ではなく、「わたしをもっと頼りなさい」という慈しみ深い招きです。
 人生という舟の中にパンが一つしかなくても、死に打ち勝たれた主が共におられるなら、私たちはすでに満たされています。目に見える欠けに惑わされるのではなく、共に歩んでくださる主を見上げ、その恵みに信頼して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2026年2月8日「神のものとして生きる自由」 

聖書 マルコによる福音書 7章1~13節

 今日の聖書は、イエス様が「神の掟」と「人間の言い伝え」の違いをはっきり示された場面です。ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」という宗教的儀式を重んじ、手を洗わずに食事をする弟子たちを批判しました。彼らは神を敬う情熱から律法(ルール)を細分化しましたが、いつの間にか、その決まりを守ること自体が目的となり、それが「自分を正しいとし、他者を裁く基準」となり、神の心から遠ざかっていたのです。
 イエス様はこれを「人間の言い伝え」と呼び、外見的な清さよりも心の在り方を問われました。弟子たちの中には手を洗う者も洗わない者もいたと推測されますが、イエス様はその自由を認められました。それは、軍隊のような画一化ではなく、各々が神の前に判断する自由な集団であったことを示しています。
 私たちはしばしば、他人の目や社会の評価を気にし、本質的には「どちらでもよいこと」に縛られて生きています。しかし、真の自由は、自分の好き勝手に振る舞うことではなく、自分を神に献げられたもの(コルバン)として、神の支配下に置くことで得られます。私たちが「自分のもの」であることをやめ、「神のもの」として生きる時、自己正当化や他者への裁きから解放されます。自分の努力ではなく、キリストの十字架の愛によって「主のもの」とされた恵みを受け入れ、神の御心を見つめて自由に歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊) 

2026年2月1日「主のまなざしの中で歩む」 

聖書 マルコによる福音書5章25~34節

 今日の聖書箇所は、12年間出血が止まらない病に苦しんだ女性と、娘を死から救おうとする会堂長ヤイロの二人の姿を通し、救い主イエスの慈しみを描いています。ヤイロは地位を捨ててイエス様の足元にひれ伏し、一方で女性は、病ゆえの孤独と絶望の中で「服に触れるだけで癒される」という一縷の望みをかけ、群衆に紛れて後ろからイエス様の服に触れました。
 イエス様は、大勢に囲まれながらも、必死の思いで手を伸ばした彼女を隠れた場所から呼び出し、「生きた交わり」へと招かれます。彼女の行動は迷信的で不完全なものだったかもしれません。しかし、イエス様は、その切実な思いを「あなたの信仰があなたを救った」と認めて病だけでなくすべての苦しみから解放されました。
 イエス様は、私たちに対しても、不完全で揺れ動く信仰のままに手を伸ばすことを待っておられます。私たちが悩みや罪の中で隠れていても、私たちを見つけ出し、「安心して行きなさい」と送り出してくださいます。その歩みは、病や老い、死という鎖を解き放ち、救いと復活の希望の中に生かしてくださるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月25日「主はあなたを蒔き、耕される」

聖書 マルコによる福音書4章1~9節

 マルコ福音書の「種を蒔く人のたとえ」は、分かりやすく教えるための話しではなく、聞く者の生き方と信仰を問う話しです。ここで取り上げられた四つの土地(道端、石だらけ、茨、良い土地)は、私たちの心の状態を指しています。しかしイエス様は、さらに踏み込みで、私たちは「土地」であると同時に、神様によって世界に蒔かれた「種」でもあると言われます。イエス様は、私たちの心に御言葉の種を蒔くだけでなく、耕し、整え、実を結ぶまで関わり続けてくださるお方です。最初から良い土地である人はいません。イエス様によって整えられて、豊かな実りへと導かれるのです。
 イエス様は、「私があなたを良い土地にする」と招かれています。これこそが福音です。自分の状態に一喜一憂するのではなく、今も心を耕し続けてくださるイエス様を信頼し、人生を委ねて歩むとき、三十倍、六十倍、百倍という想像を超えた神様の祝福の収穫が約束されているのです。(牧師 篠田 裕俊)

2026年1月18日「安息日は、人のために」

聖書 マルコによる福音書2章23節~3章6節

安息日は、神様が天地創造を終え、完成した世界を祝福されたことに由来します 。それは人が神様の前に立ち帰り、救いと解放を喜び、命を回復させるための日でした。しかし、イエス様の時代は、安息日を「命を守る戒め」から、人々を監視し縛り付ける「39種類の規則」へと変えてしまっていました。
今日の聖書箇所で、イエス様は二つの出来事を通して安息日の真意を語られます。一つは、空腹のために麦の穂を摘んだ弟子たちの姿です。イエス様は「安息日は人のために定められた」と説き、規則よりも人間の命が優先されるべきであることを示されました。もう一つは、会堂で手の萎えた人を癒された出来事です。人々は「安息日に癒し(労働)を行うか」とイエス様を陥れようとする中で、イエス様は、安息日に「善を行うこと、命を救うこと」の正当性を宣言されました 。
安息日の主であるイエス様は、今も私たちに「手を伸ばしなさい」と招いておられます。日曜日の礼拝は、規則を守るためではなく、復活の主による新しい命を喜び、主の愛に触れて心身を回復させるためです。正しさで人を裁くのではなく、主の愛に応えて、命を慈しみ、善を行う一週間へと歩み出しましょう。(牧師 篠田 裕俊)