私たちの人生には、決断を迫られる時があります。イスラエルの民は、神が約束されたカナンの地の目前まで導かれながらも、恐れを抱き、不信に陥って前進を拒んだために、40年の荒れ野の旅を強いられました。
神様が彼らに偵察を許されたのは、信仰をもって従うことを望んでのことでした。偵察した12人のうち、ヨシュアとカレブだけが神の約束を信じ、「主が共におられるなら必ず勝てる」と告白します。しかし、他の10人は現実の困難に目を奪われ、恐れによって人々の心を挫いてしまいました。
信仰とは、目に見えない神様の約束を信じて歩むことです。私たちも、恐れや困難に直面するとき、神の言葉に信頼し、共におられる主に目を向けて前進すべきです。たとえ道が険しくとも、主が共におられるならば、私たちはひるまず進むことができます。今、約束の地の手前にいる私たちにイエス様は語られます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この御言葉に応えて、一歩踏み出しましょう。(牧師 篠田 裕俊)
カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)
2025年7月13日「重荷を共に背負う神様」
イスラエルの民は、神に導かれて約束の地へ向かう旅の中で、不満を爆発させました。厳しい荒れ野の旅、食への飽き、他国人の影響により、民の信仰は揺らぎ、過去の奴隷生活を懐かしむようになったのです。神様は、その不満に憤り、裁きをもって応答されますが、そこには深い悲しみと悩みが込められていました。
民の叫びを受けたモーセは、「この民すべての重荷は、わたしには重すぎます」と神に訴えます。この姿は、十字架上のイエス様にも重なります。モーセの執り成しによって、神の怒りは鎮められました。
私たちの歩みもまた荒れ野です。与えられた恵みに感謝できず、不平を抱えてしまうことがあります。しかし、イエス様は「重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい」と招き、私たちの重荷を共に担ってくださいます。
教会は、互いに重荷を担い合い、祈り合う共同体です。それぞれの生活の中で、主に支えられ、隣人のために祈りながら歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)
2025年7月6日「昼も夜も神様を仰ぎ見ながら歩む」
イスラエルの民は、神の臨在を象徴する雲に導かれて荒野を旅しました。昼は雲、夜は火のように輝く雲が幕屋を覆い、神が常に共におられることを目に見える形で示していたのです。民は自分たちの思いではなく、「主の命令によって」出発し、「主の命令によって」宿営しました。この姿勢は、信仰によって歩む私たちにとっても模範です。けれども、イスラエルの民は何度も失敗し、神の命令に逆らいました。それでも神は、彼らを愛されて、彼らを見捨てず、導き続けます。
私たちも、自分の思いや都合で歩んでしまう弱さがありますが、イエス・キリストの十字架の恵みにより、何度でもやり直すことが許されています。主の晩餐にあずかる今、私たちは再び主の臨在に触れ、神の家族として生きるよう招かれています。目に見える雲がなくても、御言葉と恵みによって、主と共に歩む日々を大切にしてまいりましょう。(牧師 篠田 裕俊)
2025年6月29日「キリストのいのちに生きる」
マタイ福音書の最後に、イエス様の宣教命令の言葉が記されています。その中に「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」(28:19)とあります。ここを、岩波訳(岩波書店が発行している新約聖書)改訂版は、「父と子と聖霊の名の中へと彼らを浸す浸礼を授け」と表しています。「父と子と聖霊の名によって」に対して「父と子と聖霊の名の中へと浸す」は意味が全く違ってきます。この違いは、ギリシャ語原文の訳し方による違いです。「父と子と聖霊の中へと浸すバプテスマ」は、「罪に対して死んで、神に対して生きておられるキリストにあずかることである」(ローマ6:10~11)。今朝は、このことについてお話しさせていただきます。(堀内 明 兄)
2025年6月22日「後ろのものを忘れ、神に委ねて歩む」
パウロは私たちに、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神様が与えてくださる賞を目指してひたすら走ろう、と言います。どんな賞が用意されているのでしょうか。それは、イエス・キリストです。この私を愛して、この私のために命を捨ててくださったイエス様を知り、そのイエス様と共に生きることこそ喜びであり救いであるからです。
また、パウロは、「わたしに倣う者となりなさい」と言います。パウロは、かつて教会を迫害していたにも関わらず、イエス様によってその罪が赦され福音を語る者とされたことを忘れることはありませんでした。しかし、その罪に捕らわれるのでなく、それを後ろにおいて、イエス様に向かって必死になって歩んできました。その信仰の姿を倣って歩んで欲しいと願うのです。なぜなら、イエス様の愛の中にあって、イエス様の愛による交わり、信仰による心のつながりによって共に生きることは、大きな喜びであり、そこには神様の恵みと祝福があふれているからです。
パウロは、試練の時も、困難の時も、すべての歩みを主イエス様に委ねて歩んできました。ただ主イエス様に望みをおいて生きてきた自分の姿に、すべてを神様に委ねて生きる、その生き方に倣って欲しいと願うのです。そして、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と私たちを励ましてくれるのです。(牧師 篠田 裕俊)
2025年6月15日「キリストの内にいる者と認められるために」
イエス様に出会う前のパウロは、ユダヤ人であることを誇り、律法の義においては非のうちどころがないと自負していました。しかし、復活のイエス様に出会った今は、それらは、「塵あくたにすぎない」と言います。なぜなら、主イエス様と親しく人格的に結び付けられたことの素晴らしいを知ったからです。そして、これまで誇りにしてきた肉的なものをすべて捨て去っても惜しくなく、それら一切を損失であったと見なすようになったからです。
パウロは、神の義を得るためには、律法による義が必要だと考えていました。それは、自分の力に頼ることであり、神様の憐みによって与えられることを知らなかったからです。しかし、キリストの信仰によって与えられた義に生きる時、神様の憐みに気づきます。肉に頼る生き方は、一時的・その場かぎりの平安を得ることができます。でも、イエス・キリストへの信仰によって「キリストの内にいる者と認められる」ことによって、肉の欲望を超えた魂の平安が与えられます。信仰とは、神様がキリストを通して私たちに差し出してくださっている救いを恵みとして受け入れることです。これほど幸せなことはありません。(牧師 篠田 裕俊)
2025年6月8日「愛の共同体として、思いを一つにして」
今日は、教会の誕生をお祝いする「ペンテコステ」です。初代教会の人たちは、「心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美」していました。
しかし、やはり人の集まりです。いつしか教会の中で対立や分裂が起こります。そのような教会に対してパウロは、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と言います。パウロの願いは、愛の共同体である教会が、思いを一つにして共に喜ぶことです。そのためには、私たち一人一人が、イエス・キリストに結ばれて、命の言葉をしっかりと保っていることが大切です。(牧師 篠田 裕俊)
2025年6月1日「キリストを生きることの喜び」
フィリピの信徒への手紙は、「獄中書簡」と呼ばれるものの一つで、伝統的にパウロが、晩年にローマの獄中で書かれた手紙と伝えられています。また、この手紙には喜びに溢れており、「喜びの手紙」とも呼ばれています。どうして獄中にあったパウロは喜んでいるのでしょうか。
一つは、フィリピの教会が成長し続けていたことです。パウロがフィリピで伝道して救われた人は、数人でした。その後、順調に成長しパウロを支え続けました。二つ目が、福音が前進したことです。パウロが投獄されたのは、キリストを宣教したためです。そのことを知ったローマの兵士たちが、福音を開きました。また、ローマ教会の人たちは、パウロの姿を見て伝道に励みます。しかも、パウロに反対者たちも伝道をしたことで福音が広がったのです。三つ目が、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言うように、自分が生きるにしても死ぬにしてもキリストとともにいることを感謝するのです。そして、四つ目が、福音のために苦闘することも恵みであり、それこそ福音にふさわしい生活です。順調にいっている時だけでなく、苦難の時であっても、失われない喜びこそ、キリスト者の歩みなのです。(牧師 篠田 裕俊)
2025年5月25日「キリスト者の自由、それは愛によって働く信仰」
パウロは、「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。」といいます。では、キリスト者に与えられた自由とは、どのような自由でしょうか。一つは、律法の支配、つまり律法を守らなければ救われないという思いからの自由になることです。もう一つが、愛をもって仕える自由です。
イエス様は、律法全体は神と人とを愛することに基づいていると言われます。でもそれが、「キリスト者だから行わなければならない」となると、それは律法の奴隷になってしまいます。大切なのは、キリスト者の自由は、隣人を愛するがゆえに喜んで仕えることができる自由であり、愛によって働く信仰です。
私たちは、神様に拠り頼み、聖霊の導きによって歩むとき、イエス様を愛し、隣人を愛して生きていくことができ、聖霊の導きによって豊かな実が結ばれます。その恵みに感謝して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)
2025年5月18日「イエス様は、私の内に生きておられる」
ガラテヤの人々は、偽教師によって、イエス・キリストの信仰だけでなく、律法も必要だと考えるようになっていました。それに対してパウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」と言います。私たちが、神様を知ったのは、自分が求めたからだと思っています。しかし、私たちの思いよりも先に神様が、私たちを知ってくださり、神様から義とされ、神の子と認められて、律法から解放してくださっているのです。それなのに、もう一度律法の奴隷に戻ろうとしていたからです。
さらに、パウロは、「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言います。それは、イエス・キリストの福音に立ちかえって、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ことを願うからです。私たちは、神様を知っていくのではなく、神様に知られていることを知ることによって、わたしの内にキリストが生きておられて、キリストが私たちの内に形づくられることになります。そうすれば、イエス様以外のものに頼る必要はありませんし、キリストの愛と希望によって生きる者とされるのです。(牧師 篠田 裕俊)