カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年5月11日「信仰によって義とされる恵み」

 私たちキリスト者は、イエス・キリストによって救われていることを信じています。では、その救いとはどのようなものでしょうか。パウロは、「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と言います。「義」とは、「正しい」と訳せる言葉です。そして、「義とされる」とは、審判者である神様が、「あなたは無罪である」「正しい」「それでよい」と言ってくださるということです。しかし、私たちは欠けが多く、問題を多く抱えています。それでも神様は、私たちを義とし、義であると認めてくださるのです。しかも、律法の行ないではなく、ただ、イエス・キリストへの信仰によってです。
 神様から義とされるという恵みは、神様の一方的な恵みであり、私たちへの贈り物です。赦されるはずのない者が、十字架に架けられたイエス様によって無条件に赦され、生きる力が与えられるのです。神様の贈り物を受け取って、神様の恵みである救いの道を歩みましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年5月4日「救い、それはキリストの福音」

 ガラテヤの信徒への手紙は、「キリストの福音」と「キリストの自由」を明らかにした手紙です。宗教改革者マルティン・ルターは、「私はこの手紙と結婚した」と言うほどにほれ込み、宗教改革を推進する原動力となった手紙です。
 ガラテヤの人々は、パウロが去ったあとに律法遵守を説くユダヤ人キリスト者によって、パウロが伝えた「キリストの福音」から離れようとしていました。なぜなら、ユダヤ人キリスト者たちが、救われるためには「割礼」を受けてユダヤ人のようになって、律法を守らなければならないと教えていたからです。
 しかし、人間は、律法を守り通すことはできません。私たちが神様との交わりを回復する救いへの道は、神様の恵みであるキリストの福音のみです。ですからパウロは、キリストの福音に何かを加える必要はないことを教えて、ガラテヤの人々の信仰を真の福音に戻すために、この手紙を書き送るのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年4月27日「世の終わりまで共におられるイエス様」

 マグダラのマリアからイエス様の復活を聞いた弟子たちは、イエス様が約束されていたガリラヤの山に行きます。そこにはイエス様が待っておられ、イエス様の姿を見た弟子たちは、ひれ伏して礼拝します。しかし、「疑う者もいた」とあります。聖書は、イエス様のお姿を見ても、復活を信じることができない弟子たちがいたことを隠すことなく記すのです。
 イエス様は、弟子たちに近寄られて、「すべての民を弟子しなさい」と命令されます。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。
 マタイ福音書は、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」預言と「あなたがたと共にいる」という宣言で囲まれています。私たちの歩みは、この御言葉どおりにイエス様が共におられて守られています。そのことを信じて、弟子の道を歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年4月20日「さあ、ガリラヤに行こう!」

 イースターをお祝い申し上げます。イースターは、十字架で死なれたイエス・キリストが三日目に復活されたことを記念する日です。イエス様は、十字架に架かって死ぬが、三日目に復活されることを予告されていましたが、人間の常識からすれば、死んだ人間が復活するなど考えられないことです。きっと弟子たちも半信半疑だったでしょう。
 イエス様が十字架上で亡くなられてから三日目の日曜日の朝早く、マグダラのマリアたちは、亡くなったイエス様の体に香料を塗るため墓に行きます。すると、彼女たちの前に主の天使が現われて、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と告げます。その言葉を聞いた彼女たちは、大いに喜び、急いで弟子たちに知らせに行きます。すると、イエス様が彼女たちの行く手に立って、「おはよう」と挨拶されます。そして、「恐れることはない。行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言われます。
 ガリラヤは、イエス様が天の国の福音を宣べ伝え始めたところであり、最も多くの御言葉を語り、御業を行われたところです。イエス様は、弟子たちがガリラヤに行くことで、ご自分の御言葉と御業を思い起こして欲しいと願われたのです。イエス様は、私たちの罪を贖うために十字架に架かって死なれました。そして、私たちに永遠の命を与えるために復活されたのです。
 私たちは、イエス様と会うために、週の初めの日ごとに、教会に集うように招かれています。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われます。神様は必ず約束を守られるお方です。私たちにとって、これほど大きな恵みはありません。

(牧師 篠田裕俊)

2025年4月13日「わたしたちの愛のために」

 十字架のイエス様の頭上には、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられ、左右には二人の強盗も一緒に十字架につけられました。イエス様が強盗と一緒に、しかも真ん中につけられたのは、罪なきイエス様を罪あるものと示すためでした。しかしそれは、イザヤ書で預言されていたとおり、私たちの罪を代わりに引き受けるためには、罪人として認められなければならなかったからです。
 人々は、イエス様に「神の子なら、十字架から降りて、自分を救ってみろ」と罵声を浴びせます。イエス様が、十字架から降りることは簡単なことです。しかし、そうなさられなかったのは、イエス様は十字架の死を目指して歩んでこられたからです。そして、神の子であるがゆえに、父なる神様の御心に従って、私たちの罪を背負うために、十字架の苦しみをすべて受けられたのです。イエス様は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、私たちと父なる神様との間にある和解の扉を開いてくださいました。イエス様は、すべてを背負い、耐え忍び、死にまで従われました。そのようにしてまで、私たちを愛してくださっているのです。
 今週は受難週です。イエス様の十字架の傍らに立って、イエス様の言葉を聞き、そこで起こった出来事を見て、イエス様によって救われたことを感謝して歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年4月6日「裏切られても、愛する者のために」

 イエス様は、最後の晩餐を終えられると、ゲッセマネの園で、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られます。そして、「人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。」と言われて十字架への道を歩まれます。
 すると、イエス様を裏切ったユダが近づいてきて、イエス様にあいさつの接吻をしますが、それはイエス様を捕えるための合図でした。弟子のペトロは、剣と棒を手にしてイエス様を捕えようとする者の耳を切り落として抵抗します。しかし、イエス様は、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われて、耳を切り落とされた者を癒され、抵抗することなく、自分から捕えられるのです。
 世界各地で、武力衝突が続き、多くの人の命が奪われています。剣によって滅びることがあっても、平和を実現することはできません。たとえ剣によって戦いが終わったしても、そこには恨みが残り再び剣を手にすることになります。それに対して、剣をとらないキリストの戦いは、互いに和解を生み、真の平和を実現することができます。(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月30日「愛のあるところに神あり」

 イエス様が復活されて、この世の終わりの時に来られると、すべての人は、右と左に分けられます。人種も、性別も、国も、社会も、貧富も関係ありません。右に分けられる人は、「わたしの兄弟である最も小さい者の一人」に、衣食を恵み、旅をしているときに宿を貸し、病気の時に見舞い、牢につながれているときに訪問した人です。そうでない人は左に分けられます。そして、右に分けられたに人は、永遠の命が与えられ、左に分けられた人は、永遠の罰を受けることになります。こう聞くと、良い行いをすることで、右と左に分けられると思ってしまいます。
 しかし、そうではありません。苦しんでいる人に仕えていたのか、それとも無関心であったかを問われているのです。イエス様は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と教えられています。それは、私たちが愛において働く信仰に生き、永遠の命に与ることを願っておられるからです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月16日「ホサナ! 幼子のようにイエス様を讃美」

 皆さんは、イエス様にどんなイメージを持っておられるでしょうか。怒ったりせずに、いつも静かに微笑みを浮かべているといったイメージでしょうか。しかし、聖書を読みますと、喜怒哀楽の姿が記されています。今日の「宮きよめ」と言われているお話しには、イエス様が怒られたことが記されています。
 イエス様は、過越祭が近づくとエルサレム神殿の境内に入り、そこで両替や生け贄の動物で商売していた人々を追い出して、「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』、ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と言われます。両替商も生け贄の動物売買も、巡礼者が律法を守るために必要なことでした。しかし、彼らは、それを隠れ蓑にして暴利を貪っていたのです。
 イエス様の宮きよめによって境内は混乱しますが、その時、目の見えない人と足の不自由な人たちが、イエス様のところに近寄って来ると、イエス様にいやされます。それを見ていた子どもたちは、「ダビデの子にホサナ」と叫びます。祭司長や律法学者たちは、「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と腹を立てます。それに対してイエス様は、神様が子どもたちに讃美の声を歌わせているのだと答えられます。私たちは、幼子のように素朴な心をもってイエス様を受け入れることが大切です。そうすれば、神様は、私たちに恵みと祝福を与えてくださるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月9日「私たちの思いを遥かに凌ぐ、神様の恵み」

 マタイ福音書には、23のたとえ話がありますが、現代の私たちからすれば理解しがたいものもあります。その一つに「ぶどう園の労働者」のお話しがあります。この話しは、ぶどう園の主人が、朝早くから夕方まで5回に亘って労働者を雇います。そして、仕事が終わると主人は、朝早くから働いた人も夕方から働いた人もみんな同じ賃金を、支払ったというお話しです。私たちの常識からすれば、朝早く働いた人と夕方から働いた人の賃金が同じということは考えられません。朝早くから働いた人は、主人に不平を言います。それに対して主人は、「友よ」と呼びかけてから、「あなたに不当なことはしていない。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と諭します。
 このお話しは、天の国のたとえ話です。この世の常識は、働きが多いものに多くの恵みが与えられます。しかし、天の国では、雇われた時間は違っても、神様の呼びかけに応じる時、先の人も後の人も同じように救いと恵みが与えられるとイエス様は言われるのです。あなたは、イエス様のお話しに納得できるでしょうか?(牧師 篠田 裕俊)

2025年3月2日「神様に赦されたものとして」

 ペテロはイエス様に、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねます。当時のユダヤ教は、「三回までは赦しなさい」と教えていましたので、七回までの赦しは寛大な赦しと言えます。
 しかし、イエス様は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われます。それは、無制限に赦しなさい、ということであり、赦すことを数えてはならないということです。
 さらにイエス様は、莫大な借金をした家来のたとえ話をされます。それは、すべての人がどれだけ多くの罪を犯しているけれども、神様は、憐みをもってその罪を赦してくださっていることを教えています。神様は、私たちの背負いきれない罪を、イエス・キリストによって赦してくださいました。そのことを感謝し、神様に赦されたものとして、互いに赦し合って歩んでいきましょう。

(牧師 篠田 裕俊)