カテゴリー別アーカイブ: 週報(巻頭言)

2025年2月23日「自分の十字架を背負って、イエス様に従う」

 イエス様が、「人々は、人の子を何者だと言っているか」と尋ねると、弟子たちは、洗礼者ヨハネや救い主(メシア)の前に現れるエリヤやエレミヤなどと言っていますと答えます。しかし、イエス様と寝食を共にし、イエス様の教えと御業を見てきたペテロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白します。その告白に対してイエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。こうして教会は、「イエス・キリストの福音」という鍵を授けられた天の国に入るための門となりました。
 また、イエス様は、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると予告されました。それは弟子たちにとってあってはならないことです。
 しかし、イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われます。自分の十字架とは、これまでの古い自分を捨てて、イエス様に従って新しい人生を歩むことです。その歩みは、イエス様によって守られるだけでなく、永遠の命が約束されているのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年2月16日「神の国と神の義を求めて」

 イエス様は、天の国を、「畑の中の宝」「良い真珠」「地引き網の魚」にたとえられます。天の国とは、イエス・キリストによってもたらされた福音のことです。その福音は、聖書の中に隠されています。聖書は、宝が隠された畑です。その畑から自分の人生を変えるような御言葉に出会うことがあります。また、聖書は、高価な真珠が眠っている海です。その海の中から、救いを求めて御言葉を探していくことが大切だと言われるのです。そして、地引き網の魚のたとえは、網の中には、良いものも悪いものも一緒に集められるが、終わりの日にはふるいにかけられて、悪いものは捨てられると警告されるのです。
 イエス・キリストの福音とは、神様と共に歩む人生です。聖書の御言葉との出会いを喜びながら、神の国と神の義を求めて歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年2月9日「信教の自由を守り続ける」

 イエス様は、弟子の中から12人を選ばれて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す力を与えられ、「天の国は近づいた」ことを宣べ伝えるように命じられます。それとともに、国家権力や宗教指導者からだけでなく、家族からも迫害されるが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われます。つまり、迫害にあった時には、殉教するのではなく、蛇のように賢く逃げ出し、鳩のように素直な信仰を保ち続けなさいと言われるのです。
 11日は、「建国記念の日」です。教会は、この日を「信教の自由を守る日」としています。それは、憲法で保障されている基本的人権である「信教の自由」が侵された歴史を忘れることなく、それを守り続けることを確認する日としてしているからです。イエス様が予告された「信教の自由」に対する迫害の音が大きくなっているようです。私たちは、そうならないように、蛇のように賢く、鳩のように素直になって、信教の自由を守って歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)

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2025年2月2日「わたしが行って、いやしてあげよう」

 イエス様の「山上の説教」に感動した人々は、イエス様と一緒に山から下りてきます。すると、一人の重い皮膚病を患っている人が、イエス様に「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と嘆願します。イエス様はその人に触られていやされました。また、異邦人の百人隊長が、自分の僕が中風で苦しんでいることを訴えると、イエス様は百人隊長の信仰を見られて、「あなたが信じたようになるように」と言って、僕をいやされます。さらにペトロの姑が、寝込んでいるのを見られると、その手に触れられていやされます。
 いやされた三人は、当時のユダヤ社会から疎外され、軽視されていた人たちです。三人が、イエス様に求めることが出来たのは、イエス様の御言葉を信じたからです。それは、イエス様に直接会えない私たちにとって、とても重要なことです。イエス様の御言葉は、聖書に記され、礼拝によって証しされます。御言葉には、権威と力があります。それを信じる時、イエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われて救ってくださるのです。その恵みに感謝して、イエス様の御言葉を聞きながら歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月26日「イエス様と祈る喜び」

 私たちは、どのような時に祈るでしょうか。多くの人は、苦しみや悲しみの時、神様にすがる思いで祈ります。しかし、私たちキリスト者は、苦しみや悲しみの時だけでなく、喜び、楽しみ、安らぎの時も祈ります。キリスト者にとって、祈りは、呼吸であり、息吹と言えます。イエス様は、祈る時には、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われます。なぜなら祈りは、神様と対話する時であり、それは神様とのデートと言えます。ですから、祈りは人に見せるものではないからです。でも、どのように祈ったらよいか分かりません。そんな私たちのためにイエス様は、「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは、神様への呼びかけから始まり、六つの祈りが込められています。初めの三つの祈りは、神様のための祈りです。続く三つの祈りは、私たちのための祈りです。主の祈りは、一生を通して祈り続ける祈りです。そして、祈る時には、イエス様も一緒に祈ってくださっています。けっして一人で、孤独の中で祈るのではありません。これほど心強いことはありません。私たちは、祈り続けることによって、イエス様という希望の光の中に立ち続けることができるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月19日「敵を愛し祈る人は、幸いである」

 マタイによる福音書の5章から7節は、「山上の説教(垂訓)」と言われている有名な箇所です。イエス様は、山に登られて、人々に天の国とはどんな所であるかを教えます。その中の一つに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。私たちにとって敵とはどんな人でしょうか。それは、自分を迫害する人です。私たちは、そんな人を愛することも、祈ることもできません。それなのに、どうしてイエス様は、「愛しなさい。祈りなさい」と言われるのでしょうか。その理由をイエス様は、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者」となるからだと言われます。
では、「完全な者」とはどんな人なのでしょうか。それは、人を差別することなく愛する人のことです。神様は私たちを愛して罪を贖うために、イエス様を十字架につけられました。しかもイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。それだけ私たちは、神様から愛されているのです。敵を愛し、祈る時、その人は変わります。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。私たちが、それに応えるとき、イエス様は「幸いである」と言われるのです。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月12日「イエス様に見い出されて従う恵み」 

 洗礼者ヨハネが捕まったことを聞いたイエス様は、ガリラヤに退かれて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、福音を宣べ伝え始められます。そして、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを見て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。イエス様に呼ばれた彼らは、すべてを捨ててイエス様に従います。きっとペテロたちは、自分の意志でイエス様の弟子になったと思っていたことでしょう。
 しかし、イエス様が、ペテロたち四人を探されて弟子にされたのです。それは私たちも同じです。私たちがイエス様を探すのではありません。イエス様が、私たちを探して下さり、あなたの重荷を担うから、「わたしについて来なさい」と言われるのです。イエス様にすべて委ねて従うことで、新しい生き方が与えられます。何より、イエス様と共に歩む道ほど安心なことはありません。イエス様の恵みを受け取って、イエス様と一緒に歩んでいきましょう。 (牧師 篠田 裕俊)

2025年1月5日 「わたしの愛する子、心に適う者」

 新年あけましておめでとうございます。2025年もお祈りとお支えをよろしくお願いいたします。
 30歳になられたイエス様は、ガリラヤのナザレから荒れ野に出て来られて、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられました。どうして、神の子であるイエス様が、「悔い改めのバプテスマ」を受けないとならなかったのでしょうか。聖書は、その理由を「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言います。つまり、ヨハネからバプテスマを受けることによって、罪人である私たちと同じ立場に身を置かれて、私たちの罪を引き受けて、罪の贖いとなって、神様と私たちとの間に新しい関係を造られたのです。人の子となって、バプテスマを受けられたイエス様を信じて、バプテスマを受けた私たちは、主と結ばれています。それだけでなく、イエス様と同じように「わたしの愛する子」という天からの声を聞く神の子とされて、復活の命という希望が与えられていることに感謝して、2025年も主イエス・キリストを信頼し、共に歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2025年1月1日 「主イエスに導かれて」

 新年あけましておめでとうございます。今年は、有田教会・早良教会・野方教会・田隈教会の四つが一緒になっての元旦礼拝です。5年ぶりに四つの教会の兄弟姉妹と一緒に元旦礼拝を献げることができますことを感謝いたします。
さて、キリスト教暦では、1月6日は、占星術の学者たちがイエス様を礼拝した日、つまり「主の公現日」です。今日は、その占星術の学者たちが、どうしてイエス様を拝みに来たのかを考えて見たいと思います。
 ユダヤのヘロデ王の治世の時、東方の国の占星術の学者たちは、遠いユダヤの上に、今まで見たことがない星を見つけます。占星術とは、古代バビロニアで始まったもので、地上での物事の動きは、太陽・月・星などの動きによって支配されていると考えて、国家や王家の吉凶判断に使われていました。
彼らは、ユダヤに何か異常のことが起こったのではないかと考えていろいろと調べます。そして、かつてアッシリア、バビロン、ペルシアで捕囚の民とされていたユダヤ人に伝えられていた「ユダヤ人の王」、つまり「救い主」の預言を知ります。彼らは、自分たちの国に何らかの影響を及ぼすと考えたのでしょう。それを確かめるために、「ユダヤ人の王として生まれた方を拝む」ために遠いエルサレムに旅立ちます。
 占星術の学者たちは、エルサレムに着くとヘロデ王に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と尋ねます。それを聞いたヘロデ王とエルサレムの民は不安を抱きますが、聖書にユダヤ人の王が生まれるのはベツレヘムであることを教えます。
 その御言葉を信じた占星術の学者たちが、ベツレヘムに向かうと再び星が現れてイエス様のところに導きます。彼らは、喜びに溢れて幼子イエス様に出会い、黄金・乳香・没薬という宝物を献げて、イエス様を礼拝します。そして、彼らは夢の中で、神様から、「ヘロデのところへ帰るな」とお告げを受けると、神様に従って別の道を通って帰っていきます。
 占星術の学者たちのその後の人生について、聖書は何も語りません。彼らは異邦人ですので、イエス様を拝む必要などありません。しかし、神様は、人間を神様との交わりの中に生きるものとして造られました。つまり、自分では意識していない魂の深いところには、神様を求める心が与えられているのです。彼らは、この世の占星術に従ってエルサレムに来ましたが、主イエス様の導きによって心の扉を開き、イエス様を救い主と信じる者へと変えられ、神様のお告げに従ってて自分の国に帰りました。彼らは、異教の国に帰っても、イエス様を救い主と信じた生涯であったに違いありません。
2025年、どんな一年になるでしょうか。私たちの上には、イエス様を示す星が輝いています。イエス様に導かれる道は、喜びに溢れています。イエス様はいつもあなたと共におられます。その恵みを感謝して2025年もイエス様に従って歩んでいきましょう。(牧師 篠田 裕俊)

2024年12月29日「涙を拭い、希望へと導かれる神様」

 2024年最後の主日礼拝となりました。皆様にとってどんな一年だったでしょうか。この一年、神様によって守られ、皆様のお祈りとお支えによって歩んで来られたことを感謝いたします。
 さて、東方の占星術の学者たちは、ヘロデ王から「ユダヤ人の王を見つけたら知らせてくれ」と頼まれていました。しかし彼らは、神様から「ヘロデのところへ帰るな」と告げられて、別の道を通って自分たちの国に帰って行きました。それを知ったヘロデ王は、激怒してベツレヘムにいる二歳以下の子どもたちを殺します。イエス様の誕生という喜びの裏には、子どもたちが殺されるという闇があります。それは人間がつくりだした闇です。子どもを殺された親は、かつて捕囚によって連れて行かれる子どもを見て嘆き悲しんだラケルを自分に重ねます。その悲しみの中でイエス様はお生まれになり、一緒に嘆き悲しんで涙を拭ってくださるのです。それだけではありません、悲しみが、悲しみで終わるのではなく、未来には希望があるのだから、今を生きなさいと言われるのです。皆様にとって2024年は、どんな一年だったでしょうか。イエス様は、あなたの重荷を担って、共に歩んでくださっています。それを信じて希望の光であるイエス様と一緒に2025年も歩んで行きましょう。(牧師 篠田 裕俊)