「新しいあなたと出会いたい」 フィリピ3:12-16

キリスト教の最初期において最も有名な人物として二人の名前を挙げる事が出来ると思います。一人はイエスの十二弟子の一人シモン・ペトロ。彼はイエス様からペトロ(岩)という名前を与えられ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われた人物であり、実際にイスラエルにおけるキリスト教会の中心的人物でした。

もう一人はパウロ。彼は熱心なユダヤ教徒でありましたが回心し、多くの国に行ってイエス・キリストを伝え、異邦人教会の設立に携わりました。キリスト教がイスラエル地方の枠を大きく越えて世界に広がった理由の一つとしてパウロの働きがあったからです。

この多くの国でイエス・キリストを伝えたパウロが、フィリピという地方の教会に宛てた手紙の中で次のように言っています、『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません』(12節)。あのパウロが「私は分かった訳ではないし、行いも十分じゃありません」と言っているのです。ビックリします。でも、同時に慰められもします。「そうか、あのパウロでさえ、イエス様について『分かった!』という訳でも、自分の行いについても『もう大丈夫!』と言える訳でもないのか」と思えるからです。

けれども、その慰めが「じゃあ、私なんか分からないはずだよな。これでいいか!」という諦めに変わってしまいそうになるのが私達です。そんな私達の目を覚ます言葉が、このパウロの言葉の続きです。『何とかして捕らえようと努めているのです。自分がイエス・キリストに捕らえられているからです』(同節)。「捕らえられている」とは私達はもうキリストの愛に包まれている、ということです。私達は皆、クリスチャンであろうがなかろうが、イエス様の十字架によって赦されているのです。パウロはその恵みが先にある事を知ったから、もっと深く知りたい、もっと実感したい、と努めるのです。もっと深く知りたい、それは「イエス様、新しいあなたと出会いたいのです」という姿であり、同時に信仰者の歩むべき道です。

信仰者の歩みは生きる限り道半ばです。しかし、その道でこそ新しいイエス様と出会うことが出来るのです。 その出会いによって私達は日々新しくされるのです。 (牧師:田中伊策)

 

「新しいあなたと出会いたい」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節