「復活の時」 マルコ12:18-27

コンビニエンスストアやスーパーに入ると店員さん達が一斉に「いらっしゃいませ、こんにちは!」と声をかけてくれます。でも、こちらを見る事もなく言っている人も少なくありません。きっとマニュアル通りにしなさいと言われているのだろうな、店員さんにとって大切なのは「マニュアル」であって「客」ではないのだろうな、と思います。別に「神対応」をしてもらいたいとは思わないけど、寂しい思いをします。

マニュアル(行動方法や操作方法が記してある物)があると助かるのは確かです。この通りに動かせば、機械も思った通りに動いてくれます。でも、人相手にはもっと大切な事があるのではないでしょうか。「これ」でなく「あなた」という生きた関わりが。

聖書もそうです。聖書は決して信仰生活完全マニュアルではありません。神に対して、人に対して「こう行えば間違いなし!」みたいなものではありません。ところが、そのように考える人たちもいます。聖書をマニュアル化するとどうなるか、それは神様を機械のように考える事になり、自分の思い通りにしようとすることになります。『私はこうしたい。聖書にここにこう書いてあるから、こう神様にお願いしよう。神様は私の思った通りに事を運んでくれるはず』。それは『こんなものを作りたいからこのように機械を操作しよう』と同じことになります。でも神は、聖書に表すことのできるような小さな方ではないし、その神の働きを全て聖書に収められるほど少なくありません。それに、もし神様が聖書の中だけの方ならば、聖書を開いた時だけ働いておられない事になります。神様は生きて働く神です。今もなお私たちに生きて働いておられるのです。

聖書をマニュアルとして読むサドカイ派の人達にイエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。まず神ご自身が生きて働いておられる。召された者も生きて働かれる神の御手にあって復活の命を得ています.(牧師:田中伊策)

「復活の時」 マルコによる福音書12章18-27節