「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネ19:28

イエス様は十字架の上で「渇く」と言われました。十字架刑は十字架になっている柱に手足を釘打たれるという残酷な処刑方法です。釘打たれた手足はそれだけで苦しいのに、そこに全体重がかかり続けるため気絶する事も出来ません。叫び続け喉はカラカラだったでしょう。そして釘跡からは絶えず出血があります。貧血状態でフラフラになっていたことでしょう。カラカラ、フラフラで「渇く」のは当たり前です。けれどもこの「渇く」という言葉はそのような意味ではありません。それは福音書が次のように記しているからです。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

悲しむ者と共に悲しまれたイエス様でした。やがて裏切り逃げ出すことを知っていたのにその弟子達を最後まで見放すことをせず守られたイエス様でした。自分の立場や地位を守るためにイエス様を十字架につけようとした人々を責めることなく十字架に向かわれたイエス様でした。出会うすべての人々に愛を注がれたイエス様でした。「渇く」とはその愛をすべて注ぎ、その命を終えようとしているという事です。イエス様の中には愛しかなかった、という事です。神様が私達にイエス様を与えて下さった、それは神様が私達をただ愛そうとして下さっているメッセージです。

それにしても愛を注ぎ尽くして十字架で死を迎えるとは、何と理不尽で何と悲しい事でしょうか。愛する先には絶望が待っているのでしょうか。確かに報われない事も多くあります。そして私達は愛する事に躊躇しそうになります。しかし、「そうではない。神様は愛するということを意味のないものにされない」と聖書は語ります。神様はイエス様を死の中から甦らせた、と伝えているからです。「私はあなたがたと共にいる。あなたがたが愛そうとする歩みを意味のないものにしない。絶望で終わらせない。」イエス様の降誕を私達が喜び祝う理由がここにあります。すべてを注いだ救い主を喜ぶのです。 (牧師:田中伊策)

「すべてを注ぐ救い主」 ヨハネによる福音書19章28節