「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節

イエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と言われます。「私は道」つまり、私の後をついてきなさい。私に従いなさ。この道を行きなさい、と言われるのです。そのイエス様が涙を流される。それは、イエス様が私達に涙することを許された、ということです。イエス様の涙は、私達が泣いても良い、ということです。彼女たちの「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」という嘆きを、そして私達の「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか」という思いと言葉をイエス様は許されている、という事です。嘆き悲しむそのままの私達をイエス様は包まれるのです。「泣きなさい。悲しみなさい。私もあなたのために泣こう。その悲しみをわたしも受取ろう」。

残念な事に神様を信じていても私達に悲しみは訪れます。そして、その象徴として死は訪れます。誰にでも必ず死が訪れる、ということは誰にでも必ず悲しみは訪れるという事です。そしてそれを知りつつ悲しみの前でなお私達は嘆きます「神様がいるのだったらどうしてこんな事が起こるのですか?」マルタとマリアの言葉を借りるなら「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」。そこに神様がいなかったからこんな事が起こったのでしょうか?イエス様がいたらこんなことは起こらなかったのでしょうか?

そうではありません。主は共におられます。主はあなたの悲しみの傍らにおられ涙を流されています。主はあなたのその悲しみの傍らで、同じ悲しみを受けておられます。何故なら、神様は私達を愛しておられるからです。そして、その傍らにおられ、共に涙を流される主と出会う時、いえ、傍らで涙を流される主に気づく時、希望の道のりが始まります。私達の歩みはその繰り返しです。だから何度でも涙して良いのです。 (牧師:田中伊策)

「涙を流す救い主」 ヨハネによる福音書11章35節