「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節

「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」 (ヨハネ4章6-7節)。

「疲れた」だの「水を飲ませて下さい」だの、何とも弱み丸出しの「救い主」です。しかし、そんな救い主の弱い姿はここだけではありません。その誕生からそうです。家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされた赤ん坊。その姿は弱さそのものです。そしてその死もまたそうです。十字架につけられて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫びながら死んでいかれたイエスの姿は弱さの極みです。始まり(誕生)も終わり(死)も弱さなのですから、その間の生涯も弱さの中にあっても不思議はありません。

「水を飲ませて下さい」と弱さをさらけ出し助けを求める救い主の姿は弱い人間そのものです。けれども逆に人間はなかなかその弱みを見せたがりません。別の何かで包み隠したり、他の人の弱さを指摘して誤魔化したりしてしまいます。誰もが弱いって知っているのだから人間同士その弱さを隠さなくても良いはずなのに。互いに「助けて」って言えば良いのに。共に生きたら良いのに。

イエスは「水を飲ませてください」と言われます。この助けを求める救い主の姿は、神が人と共に生きようと決意された証です。そして家畜小屋の飼葉桶に寝かされた幼子の姿もまた、神が私達と共に生きる決意の姿なのです。 (牧師:田中伊策)

「助けを求める救い主」 ヨハネによる福音書4章7節