「油注がれた者」 マルコ14:3-9

「イエスがベタニヤで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた。」(3節)

イエスの時代には、重い皮膚病の人が出ると、その町の人々はその病が感染することを恐れ、皮膚病の人を町から追放していました。追い出して、人々は安心するのです。目の前に重い皮膚病の人がいなくなったからです。しかし、村から追い出された重い皮膚病の人には、絶望的な事、命を奪われるような事です。何故なら人は独りでは生きられないからです。追放された人は、そういう人々の暮らすところで何とか生きていました。

イエスはそういう追いやられた人々、見えなくさせられた人々を追いかけるような歩みをしておられました。追いかけて、そして追いついて、絶望した人々に慰めを与え、希望を与えて行ったのです。一緒に食事をする、というのは、昔も今も仲良しのしるし、親しさのしるしです。孤独の中にあり、絶望の中にあった人々と食事をしたイエスの姿は「あなたは一人ではない」という思いを伝える出来事でもあります。

そこに一人の女性が入ってきます。彼女は持っていた石膏の壺を割り、その中に入っていた香油をイエスに注ぎます。その香油は人が亡くなった時に埋葬の前にその身体に塗るものでもありました。彼女は知っていました、イエスの歩みが時代の中で受け入れられないものであることを。人々は都合の悪いものを見えるところから追い出していまいました。シモンはその代表のようなものです。そして、逆に目に見えるもの栄えさせてくれる王(救い主)を求めていました。

王はその戴冠式において油を注がれる事になっていました。救い主とは「油注がれた者」という意味です。一人の女性は、「見える物」ではなく「見えなくされた者」を追いかけ希望を与えるイエスを救い主とし、その葬りの備えをしたのです。 (牧師:田中伊策)

「油注がれた者」 マルコによる福音書14章3-9節