「新しい言葉を求めて」 創世記11:1-9

創世記11章にある「バベルの塔」の物語は、神の地位に登り詰めようとしている人間に対して神様が言語をバラバラにして人々を世界に散らすという方法で裁いたという内容です。

この物語の最初に「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。人はそんな世界にあこがれます。世界中が同じ言葉だったら誰とでも話せますから、どこにでも行けるような、そんな気がするからです。でも、それが錯覚であると聖書を読む中で思います。日本語に訳された聖書を読んでも、よくわからない事が多いからです。

歴史的な背景や人々も暮らしが分かって、やっと意味が分かる事も多いのです。イエス様は多くの譬え話をされました。「譬え話」はイエス様の周りにいる人々の生活の中にある出来事に置き換えて分かりやすく話されていますが、私たちの生活や常識とは違うので、読んだだけではその意味はなかなか分かりません。大切なのは、「同じ言葉を使う」事ではなく、対話しようとする相手を知ろうとする努力です。それがなければ言葉が同じであっても伝わらないのです。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」、これは相手の思いではなく、自分の主張を押し付ける支配・被支配の物語です。支配者が他の人間を歯車のように使うために言葉を使っていたのです。その中で神は人が人として生きるように解放されているのです。

しかし、そこから私達の苦労が始まります。違う言葉(違う考え方)の人と、苦労しながら一緒に生きて行くのです。お互いと苦労して出会いながら、新しい言葉を探してゆくのです。ヨハネによる福音書では冒頭、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1:14)とあります。神は人となられて、私たちと対話されようとしています。神と人との隔たりを神様が越えて下さって苦労して一緒に生きようとされているのです。私達が使う言葉には、人と人の思い、神と人の思いが重なり合っているかなぁ。 (牧師:田中伊策)

「新しい言葉を求めて」 創世記11章1-9節