「荒れ野の四十日を越えて」 マルコ1:12-13

詩編119:105には次のように書かれています。「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」。ここには聖書というものは暗闇の中を照らしてくれる灯火、あかりのようなものだ、と書かれています。つまり、聖書は私達がどのように歩けばよいか、という道しるべなのだ、と書かれているのです。神様はどんな方?イエス様はどんな方?それはとても大切な事なのですが、同時に私達はどのように歩けば良いの、生きたら良いの?という事もまた聖書から聴いて行く、教えられて行く事が大切なのです。ヨハネによる福音書においてイエス様は「私は世の光である」と語られ「私は道であり、真理であり、命である」と言われています。「灯火」と「道」として聖書を読むのです。

「あなたの御言葉は…私の歩みを照らす灯火」この「灯火」というのは小さな光です。私の友人の牧師がそれを実際にやってみたそうです。真っ暗な場所に出かけて小さな灯火をつけて歩こうとしてみたのです。そうしたら、吸い込まれるような闇の中で小さな明かりは自分の足元くらいしか照らしてくれない。一歩先しか見えなかった。二歩先は見えないから一歩一歩しか進めないのが灯火だと理解した、というのです。小さな明かりを頼りに一歩進むと、次の一歩が見えるくらい。一歩進んだら、次の一歩が照らされる。聖書も同じです。

先の見えない私達は、一歩一歩しか進めない、一つ一つ聖書に聞き続ける。そんな読み方をしてゆく必要があるのです。イエス様はその一歩、こんなふうに進みなさいよ、と教えてくれるのです。小さな光を頼りに進み出して知ることはそこにまた闇がある、ということです。だから、光を頼りに一つ一つ教えられて行く、私達として一歩一歩進んで行くのです。 (牧師:田中伊策)

「荒れ野の四十日を越えて」 マルコによる福音書1章12-13節