「それでもその道は進まない」 マルコ1:14-15

「ヨハネが捕らえられた」(14節)という出来事は、イスラエルの民衆にとって大きな悲しみの出来事でした。ヘロデ王という権力を持つ巨大悪に対して、一歩も引かずに批判していったヨハネを弱い立場の人々はきっと応援していたでしょう。ところが、彼は捕らえられてしまったのです。

人々はその理不尽な出来事に怒り、何もできない自分の弱さを嘆いたことでしょう。そんな中で「イエスはガリラヤに行」(14節)きます。それは故郷に帰ったという意味ではありません。「異邦人のガリラヤ」(イザヤ7:23)という旧約聖書の言葉の中にあります。またヨハネによる福音書7章ではガリラヤは預言者が出るような土地じゃない、と人々が言っています。ガリラヤは辺境の地、イスラエルの中でさげすまれていた地域でした。どの時代、どの場所でも、抑圧、しわ寄せは弱い立場の人々のところに色濃く表れます。

だからこそ、ヨハネの逮捕について最も絶望感と悲しみと怒りを募らせたのもまたガリラヤだったのではないか。だからこそイエスはガリラヤに行ったのです。人の世の悲しみが満ち溢れるその時、最も悲しみの深い、その場所へ慰め、伴い、寄り添うために。そして言います。「時は満ち、神の国は近づいた」。この絶望の中らしからぬ希望の言葉をイエスは語ります。

イエスは他のところでこんな言葉を語っています、「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)。悲しみはそれ自体、決して嬉しくはありません。しかし、その悲しみの中でこそ私達は慰めに出会う。そしてそこで本当の友に出会う。この絶望的な出来事の中にイエスは来た。「時が満ちた」とは例えるならコップに水が注がれ、その水があふれる瞬間のようなものです。それは人々の目から悲しみの涙があふれる瞬間でもあります。そしてそれは慰めを受けるべき瞬間でもあります。

イエスはその傍らに来て、その涙をぬぐわれます。そこに神の国はあります。そして悲しみと絶望と怒り、そんな道に引かれそうになる私達の傍らで、主は「悔い改めよ」(方向転換せよ!)と言われます。悲しみの涙を受け止められここに神の国がある、この方こそ福音(喜びの知らせ)だ、と信じて「悔い改めよ」の声を聞く私達は「それでもその道(悲しみ、怒り、絶望)の道は進まない、そして主が伴われたように隣人として生きる道を進むのだ」と告白してゆきたいと思います。 (牧師:田中伊策)

「それでもその道は進まない」 マルコによる福音書1章14-15節