「真ん中にあるもの」マルコ1:章16-20

特にオウム真理教の事件以降、日本において宗教は警戒され敬遠されるようになってきたように思います。それ以前も統一協会などによるマインドコントロールは問題になっていましたが、オウム真理教などを見ると、「その宗教の教えが絶対で、その教えを守るためには人を騙したり人を傷つけたりする事すら肯定される」と思われ、「近寄らない方が良い」「のめり込まない方が良い」と思う人がとても多くなってきたように思います。さらに今、「イスラム国」と名乗る人々の悲しい事件で一層そのように思う人は増えてしまったのではないか、と思います。しかし、人を傷つけたり人を騙してまで教えを守ろうとしたり、組織を守る事が何より優先されるようなものは最早、宗教ではありません。

そういうと「キリスト教だって同じじゃないか!」って言われそうです。そのように読める箇所もあるからです。イエスはガリラヤ湖畔で漁師の仕事をする二組の兄弟(シモンとアンデレ・ヤコブとヨハネ)にそれぞれ声をかけます。そうすると、この4人は仕事も家族も捨ててイエスに従ったと書かれています(マルコ1:16-20)。「ほらほら、キリスト教も怖い!」と思う人もいるでしょう。でも違います。最初の二人(シモン・アンデレ)の場合、二人が漁をしていた姿をイエスは見たと記されているのですが、そこに敢えて「彼らは漁師だった」とあります。これは「彼らの仕事=漁師」ではなく「彼ら=漁師」つまり「彼らの真ん中にあるものが仕事だった」という事ではないでしょうか。

これだって宗教まがいの物と同じように十分怖いと思います。仕事は大切です。でも「仕事」が真ん中にある人生や家庭や社会が経済中心社会を作り、力がものをいう社会を作り、男性中心社会を作ったのではないでしょうか。イエスは彼らに声をかけます、「人間をとる漁師にしよう」。「魚」ではなく「人」を真ん中にする、「仕事」ではなく「命」が中心にある生き方への促しです。そうなるためには一度土台を据えなおす必要があります。新しい下着をズボンの上から履く人はいません。一度ズボンも今までの下着も脱いで新しい下着を履き、そしてズボンを履くものです。信仰とは新しい下着、そしてズボンとは家族だったり仕事だったり、私達の生活そのものです。「命を真ん中にするために、共に生きる歩みをするために私に従って来なさい」イエスはそう私達に促しています。 (牧師:田中伊策)

「真ん中にあるもの」 マルコによる福音書1章16-20節