「本当の権威」 マルコ1:21-28

いつものようにイエス様が礼拝に来られて語られている中に、「会堂に汚れた霊に取りつかれた男が」おりました。彼は叫びます「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」構わないでくれ、というのなら、イエス様がいる会堂に来なければ良い、と思うのですが、彼はここにいます。そこには、彼の中に相反する思いがありました。彼は「我々を滅ぼしに来たのか」と叫びます。彼が「我々」という。そこには、彼が生活の中で「自分は救われ難い、赦され難い、愛され難い」そんな絶望的な思いを抱くような数多くの重荷や悲しみが隠されています。「自分は救われ難い、赦され難い、愛され難い」という思い、それこそが「汚れた霊」(悪霊)の正体です。そんな思いとは裏腹に、彼は会堂にいる、それは「でも、赦されたい、救われたい、愛されたい」という願いです。彼の中には「私は救われ難い、赦され難い、愛され難い」という絶望と「赦されたい、救われたい、愛されたい」という願いが同居していたのです。彼は会堂の中でイエスに叫ぶ。その切実さをここに見ます。

そんな彼にイエス様は「黙れ、この人から出て行け」と言われます。彼の「かまわないでくれ」に対して、そして絶望に対して「黙れ」と言われるのです。それは「かまわないでくれ!なんて言うな。あなたの希望である私はあなたから離れない。だから希望を捨てるな!絶望よ、出て行け!」と言われるのです。その時「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とあります。「けいれんを起こす」というギリシア語には「引っ張る」とか「引き裂く」という意味があります。悪霊は彼を引っ張ります、「こっちにこい」って。でも、イエス様は彼から離れなかった。そして切れたのは絶望の方でした。絶望は彼から引き裂かれて「大声をあげて」つまり絶望して去って行ったのです。絶望が絶望したのです。イエス様の言葉は絶望を切り裂く希望の言葉です。 (牧師:田中伊策)

「本当の権威」 マルコによる福音書1章21-28節