「広がりを考える」 マルコ1:35-40

自分でも気付かなかった思いに気づかされることがある。日常に埋没して、忙しさに忙殺されて、心を奪われる毎日。家族に仕え、隣人に仕え、そんな中で心傷付いている自分、疲れ果てていることすら気づかない。愛そうとして行っていた行為が、いつの間にか義務になり、仕事になり、歯車になり、そしてそんな気持ちで行っている事すら気づかない。麻痺している。「お疲れ様」と誰かに言われて初めて、「そうだ、私は疲れている」って気づかされる。「疲れたなぁ、きついなぁ」そう思ったら涙がぽろぽろこぼれてくる。

自分の顔は鏡に向かわないと見ない。でも、もしかしたら鏡を見ても分からないかもしれない。何故なら鏡の前に立つ時、表情を作っているから。だから「自分の事は自分が一番分かっている」というのはきっと違う。むしろ周りの人の方が自分を分かっている。余裕のない自分、疲れ果てている自分を周りの人は見ている。自分の本当の鏡は他者なのだと思う。自分ですら気づかない、そんな気持ちを他の人の方が分かっている。

それでも、他の人だって表情は分かっても、その表情の意味は分からない。硬い表情は読み取れても、「何かあったんだな」とは思っても、その表情の中身に何があるかは分からない。しかし私達はその中身さえ知って下さっている方を信じている。その方の前に出る。それが礼拝するという事。礼拝には二つある。一緒に礼拝する礼拝と、一人でする礼拝。感謝する、それは自分でも分かっている感情。「ごめんなさい」って言う、それは自分が知っている罪の意識。そんな思いを持ち寄って、神様を真ん中にしてこの世で赦し赦され、愛され愛しながら一緒に生きるその最初に実践の場がこの礼拝。でも、それだけでは十分でない。自分さえ気づかない、分からない心の奥底の気持ちを既に知って下さり、それをまるごと受け止めて下さる方の存在にホッとするのは、むしろもう一つの礼拝、一人で神様と対話する礼拝かもしれない。この両方の礼拝があって、私達の信仰は成り立っている。(牧師:田中伊策)

「広がりを考える」 マルコによる福音書1章35-40節