「卑屈でも尊大でもなく」 マルコ1:40-45

重い皮膚病の人がイエスの元に来て言います、「ねえ、イエス様。私は聖書の律法に裁かれて汚れた者にされちゃったんですけど、これって何なんですかね?神様が私に『お前はダメ!』って言っておられるんでしょうか?神様の思いってどこにあるんでしょう。神様の思いが私にはもう分からなくなっちゃいましたよ。私は生きていて良いんですか。生きていて良いのなら、清められるはずですよね。もし神様の思いが私を生かす事ならば、私は清められるはずじゃないですか。」。彼がそう言うのは、律法の中に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ13:45-46)という言葉があるからです。個人を犠牲にしても集団を守るという強い民族主義が、聖書の言葉さえ歪めてしまったのかもしれません。何だか民族主義と国家主義によって憲法を変えようとしているどこかの国のようです。

それに対してイエスは「深く憐れんで」とあります。憐れむというのは「怒り」とも訳せる言葉です。イエスは怒ったのです。彼を絶望させる社会に対して、そして、その中で卑屈になった彼に対して。そしてイエスは言います、「よろしい。清くなれ」。憐れんだ、とそのまま訳すとこんな穏やかな表現になりますが、これが怒ったのならちょっと変な表現です。文語訳では「わが意(こころ)なり、潔(きよ)くなれ」と書かれています。「律法がどうであろうと、私はお前が大事だ。愛は律法を越えるんだ。お前は駄目じゃない。しっかりしろ!」その言葉によって彼は清くなった、と書かれています。イエスは言います、「祭司の所に行って何も言わずに自分の姿を見せ、その清さを証明してもらいなさい。」。しかし彼は、今度は尊大になり人々に「私はこんなことをしてもらった」って言いふらします。愛というのはなかなか伝わらない。それで今度はイエスは町の中に入る事が出来なくなってしまいます。追い出されていた彼の身代わりにイエスが町から出されたのです。社会の罪、彼の罪を背負ってイエスは歩まれるのです。 (牧師:田中伊策)
「卑屈でも尊大でもなく」 マルコによる福音書1章40-45節