「わたしの子供たち」という言葉から、パウロが自分の子供を愛する母親か、父親のようにガラテヤの教会の人たちを大切に思っている気持ちが現れています。むしろこれは母親でしょうね。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」とありますから。
ある夫婦にお会いしました。その夫婦は今、赤ちゃんが授かろうとしています。女性のお腹には双子の赤ちゃんがいます。その赤ちゃんの超音波の写真を見せて頂き、「ここが目で、ここが鼻」と教えて頂きました。一人の赤ん坊は指をしゃぶっていました。女性は事あるごとにお腹をさすっていました。しっかり形作られるようにしっかり育つように、優しく優しくさすっていました。パウロもそんな気持ちだったのでしょう。教会の場合、形作られてゆくのはキリストです。私達の主キリストが形作られてゆくのが教会です。人間の正しさで救われるのならキリストは必要ありません。にもかかわらず、その正しさを答えとする時、教会はその度にキリストを傷つけ、その度に十字架につけることになるのです。パウロはその苦しみを産みの苦しみに重ねています。「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。そして、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」とパウロは語ります。「語調を変えて」というのは母親が子どもを優しく諭してゆくように愛を持って、ということでしょう。「そうしたい。でも、今は違う場所にいる。それが辛い」というのです。そして、この苦しみは、キリストの苦しみです。
私達は人です。だからどうしたって正しくはあり得ません。まずはそれを認めそこに立つことです。その時に私達の真ん中にキリストの十字架が立ち、教会は教会となるのです。そこから教会はキリストの苦しみを、私達の苦しみとしてゆく事が求められています。そして教会の真ん中におられるキリストがどう語っておられるか、どのように指し示しておられるか、その事をキリストの身体として表す努力をしてゆく必要があります。それはある意味、途方に暮れるような作業かもしれません。しかし、その途上で教会は成長しています。(牧師:田中伊策)
「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」 ガラテヤの信徒への手紙4章19-20節