「賛美するために創造された」 詩編102:18-19

詩編102編が書かれた時代、イスラエルは真っ暗な闇の中にありました。他の国と戦争をして負けて失ってしまったのです。争いによって多くの命が奪われ、財産は奪われ、生き残った者も奴隷となって尊厳も奪われ時代です。その状況をはっきり表しているのが7節「荒れ野のみみずく 廃墟のふくろうのようになった」です。私は暗闇の中で暮らすふくろうのようだ、というのです。自分をふくろうにみたてた一人のイスラエル人が、神の前に祈る祈り、それが詩編102編です。ですから、この詩編はイスラエルの中では伝統的に「苦しむ者が思いくずおれて、その嘆きを主の前に注ぎ出す時の祈り」という題がつけられています。

真っ暗になったのは、自分を誇ろうとしたから。自分で自分を輝かせようとしたから。富や武器で自分を飾ろうとしたから。でも、その光は偽りの光でした。その光は自分や他者の命を蝕み、削り、奪うものでした。その事に気づいた時には闇の中、18節にある通り「すべてを喪失した者」となったのです(別の訳では「裸の者」とありました)。

でも18節全体では「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした」とあります。握っている時、自分を飾っている時、自分で自分を輝かせようとする時には分からなかいけれども、失った、もしくは主の前に自分を裸にした中で祈る時に初めて気づく事、それは「主は(私を)顧みられていた」ということです。

月が輝くのは夜だけ、それも暗闇の中で日の光の当たる部分だけが輝きます。月の綺麗な模様は表面の凸凹のコントラストや隕石がぶつかった跡。日の光はそんな月の傷さえも綺麗な模様にして輝かせくれるのです。日の光を浴びた月だけが美しく輝く。それは喪失し裸になったイスラエルを包む神様の光、そしてその神様の光を浴びた者が主を賛美するのです。

「主を賛美するために民は創造された」。それは言い換えると「神によって創造された者(神は無いところから創り、小さいまま愛し、弱いまま生かして下さる事を知った者)が主を賛美する」ということです。 (牧師:田中伊策)

「賛美するために創造された」 詩編102編18-19節