「不完全な私のままで」 フィリピ3:12-16

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)

上記の言葉は伝道パウロの言葉です。しかし、捕らえられているから捕らえようと努めている、とは何だかよく分からない言葉です。でも、この「捕らえられている」という言葉を「愛されている」と言い換えてみるとその意味がよく分かって来ます。つまり「愛されているから愛そうと努めている」という意味です。そして「努めている」という言葉の中に、パウロの、そして人間の限界を感じます。「愛そうと頑張っているんだけどなかなか難しい」「分かっているんだけれど、それを行うって難しいね」って感じでしょうか。最初の言葉である「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」という言葉もそういう意味でしょう。「私は何て不完全な人間、私は何て愛から遠い人間なんだ」と心底思っているのです。

でも自分が不完全な人間であることを思えば思う程、この自分を愛して下さった神様の愛の大きさを知るのです。そして自分が愛から遠い存在であればある程、イエス・キリストがどれだけの隔てを越えて来て下さったかを知り十字架の重さを知るのです。そしてそれが従う力、愛する原動力になるのです。「愛されているから愛そうと努めている」のです。

今日は神学校で学ぶ神学生を覚える礼拝を捧げています。神学校で学んでおられる方々も同じです。彼等・彼女等は「この小さな自分を愛して下さった神様の愛に捕らえられた」のです。神学生の献身もまた愛されているから愛する、捕らえて下さったから不完全な自分のままで捕らえようとする、そんな事柄なのだと思います。その学び、その働きが進められる先に神様の大きな愛が表されてゆく事を願い、祈り支えていきましょう。(牧師:田中伊策)

「不完全な私のままで」 フィリピの信徒への手紙3章12-16節