「希望と平和の源流」 ローマ15:33

ローマの信徒への手紙は、いろいろな国でイエス・キリストを伝えていたパウロが、まだ行ったことのないローマの教会に対してあいさつと自己紹介をする、というような内容です。自己紹介と言ってもその内容は、自分の経歴とか趣味とか特技とか家族構成という事ではなく「私はこんなふうにイエス様を信じています」と自分の信仰を伝えようとしています。パウロは「ローマの教会に行った時にはこんな自分を受け入れて欲しい」と熱く自分の信仰を伝えます。ローマの信徒への手紙はパウロの信仰理解が色濃く出ている手紙です。

この熱く自分の信仰を語るパウロの心情の中には伝道への情熱があったと思いますが、それだけでなく、心配もあったのだと思います。いろんな国に行ってイエス・キリストを伝えたパウロでさえも「自分は受け入れられるだろうか」という心配があったのだと思うのです。それはローマの信徒への手紙の中にやたら「ユダヤ人」と「異邦人」という事柄が出て来る事からも分かります。律法(旧約聖書)を守り続けてきたユダヤ人が救われ、クリスチャンと仲よくすることをパウロは願っています。そのパウロの気持ちに嘘はないのですが、そこには自分とローマの教会の人たちの関係と重ねていたのではないか、と思うのです。

人と人との関係は難しい、クリスチャン同士でも難しい。そんな中でパウロは最後にこんな言葉を伝えています。15章の5節「忍耐と慰めの源である神」、13節「希望の源である神」、そして33節「平和の源である神」と語っています。「源」辿るべき水源、戻るべき原点は相手でも自分でもなく神なのだと語るのです。初めからずっと仲が良い関係なんてありません。また違う者同士だからお互い我慢もしなければなりません。相手の姿や言動にがっかりやイライラもするでしょう。願っている結果、思い描く相手の姿、理想の自分、と現実との隔たりに絶望しそうになります。しかし、そのただ中に、そして傍らに神はおられます。決して私達を諦めず、私達に絶望せず、私達に無関心にならない神、そこに私達の歩みの源を置くのです。願っている通りにならない絶望的な現実のただ中、主がそこにおられることこそが希望なのです。 (牧師:田中伊策)

「希望と平和の源流」 ローマの信徒への手紙15章33節