「聖域の無い信仰」 マルコ2:13-17

税金は国や県や市などの地方自治体が、そこで暮らす個人や地域全体の役に立つ働きをするためにそこに住む人たちから徴収するものです。つまり、税金とは回り回って自分たちの利益になるものです。ところが、イエス様の時代のイスラエルでは、税金と称しながら、一切イスラエルの人々のためにならないものがありました。当時、イスラエルを支配していたローマに行ってしまう税金が多くあったのです。ローマの人はイスラエルの人の怒りがこちらに向かわないように、と税金を徴収する人たちをイスラエル人の中から選びました。ローマの思惑通りイスラエルの人たちは徴税人を嫌い「ローマの手先め!」「裏切り者!」「お前たちのせいで俺たちは貧しいんだ」と罵られていました。「収税所」に座っていたレビもそうでした。いつも、人々が捨てるように入れ、ぶつけるように渡されるお金を悲しい気持ちで集めていました。

最近、多くの人々が彼の前を通ります。何でも「イエス様の話を聞きに来た」とかで。すぐ近くの湖の畔でその人は群衆に慰めの言葉を語りかけていたのです。そして、帰る時はみんな良い顔をして帰って行きます。レビも悲しい気持ちを抱えていましたから、その元気な顔に羨ましさと隔たりを感じながらおりました。「自分は行っちゃいけないんだ。自分には行く資格はないんだ」そう思っていたからです。

ところがある日、いつものように人が通り過ぎる中で一人の男性がレビの前で立ち止まりました。それがイエスでした。彼は言います、「わたしに従ってきなさい」。レビはすぐに立ち上がり、イエスと共に湖畔へ向かいます。民衆からも白い目で見られていたレビも、今日はイエスの導きの中で人々と共に慰めの言葉を聞きます。イエスが民衆と徴税人をつなぎます。ぶつけようのない怒りを徴税人個人に向け刃を立てる民衆の罪も、それでも徴税人として生きなければならないレビの悲しみも抱えて慰めを語ります。民衆の貧しさと虐げの悲しみの底に横たわる罪も、徴税人の仕事の裏側に忍ばせた悲しみもイエスは知っています。 (牧師:田中伊策)

「聖域の無い信仰」 マルコによる福音書2章13-17節