「神の業としての教会」 マタイ16:13-20

旧約聖書の詩編にはいろんな人がいろんな状況から神様に訴えている言葉が記されています。嬉しい時、悲しい時、困っている時、そのなかからいろんな言葉が書かれてあります。中には「敵をやっつけて下さい」とかいう言葉さえあります。そんな中で私達は勘違いしそうになります、「敵をやっつけていい、というのが聖書の思想だ」と。でも、違います。困った時、激しい怒りを発した時、様々な心情をそのまま神様に訴えることは赦されている、ということなのです。そんな思いを包み隠して神様に向かって「感謝します」「あなたをほめたたえます」というのであればそれはむしろ不信仰です。その醜さや、その小ささを神様は知っているのだから、その包み隠さない裸の言葉を神様になげかけることが赦されているのです。ただ、そこから先が大切です。最後は自分の思いではなく、神様はどう思われているか、どうなさるか、委ねて信頼すること。イエス様は捕らえられる前に祈られた時に「父よ、できることなら、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかしわたしの願いどおりではなく御心のままに」(マタイ26:39)と祈られました。信頼してこの「御心」に向かう祈りが大切なのだ、と思います。

私の願望で終わるのではなく、主の御心がどこにあるか、そこが大切です。今日の聖書で、人々は時代、状況の中で、自分の願望や絶望の中でイエスを誰か、とあれこれ言うのです。そんな中でペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」というのですが、ペトロの答えは「御心」がイエス様の中にあるという言葉、神様の思いが中心にある告白です。「生ける神の子」とは見えない神の姿、あなたを見たら神様がどう示しているかが分かる、ということです。そう考えると、私達の告白自体、自分の内側のものではなく、神様から与えられたものということになります。与えられた物が私達の言葉、私達の告白となってゆく、個人の信仰も、教会の信仰も神様の愛から来るものだということです。 (牧師:田中伊策)

「神の業としての教会」 マタイによる福音書16章13-20節