「互いに足を洗い合う」 ヨハネ13:14

キリスト教用語で「受肉」と言う言葉があります。日本語ではほとんどキリスト教でしか使われない言葉です。ギリシア語では「エンサルコーセー」、英語では「incarnation」という単語が使われています。この英語の言葉には、「化身」とか「具体化」とか「権化」という意味もあります。ドラマとかでとても悪い奴のことを「悪の化身」なんて言います、あの「化身」です。

「悪というものに形があり、それが人間となったらきっとこんな姿形なのだろう」というそういう意味です。「受肉」というのも正にそういう事で、「神様は見えないけれど、イエス・キリスト、この方こそ見えない神の形、人となった神だ」ということです。「神が姿、肉体をとって現われたという出来事」それが「受肉」という意味です。神様は私達を愛して下さっている、その愛が形に、愛が姿になった、というのです。聖書を読むと、時々「イエスは深く憐れんで」と言う言葉が出てきます。「憐れむ」というのは上から「お可哀そうに」と下々の者に情けをかける、と言う意味ではなく、相手の痛みを自分の痛みとする、という事です。

私の友人の子どもが子どもの頃にテレビを見ていて、誰か人が血を流しているのをみて「いたい、いたいが出ている」と言ったそうです。人が血を流している、その姿に、自分が血を流した時の痛みと重なったのでしょう。その人の痛みが自分の痛みとなったでしょう。イエスはその他者の痛みを自分の痛みとして行った。相手の痛みに自分の心も体も痛む、正にそれが「憐み」なのです。イエスは更にその人の悲しみ、弱さ、罪さえも自分の事柄として行った。その罪を自分の事として背負って行った。それが十字架です。だからキリスト教では、十字架が掲げられています。私の弱さや罪を背負ってイエスは十字架にかかられたそこに神様の愛を見る、見えない神の愛をイエスを通して見る「受肉」なのです。 (牧師:田中伊策)

「互いに足を洗い合う」 ヨハネによる福音書13章14節