「日々新たにされて」コリントⅡ 4:16

聖書は語ります、「だから、私たちは落胆しない」。この「だから」という言葉には、「それでも」という強い気持ちがあるように思います。願っている方向とは別に進む現実、願っていることが出来ない体、そんな中で「それが私たちだよ、それが人間だよ」って妥協したくなります。あきらめたくなります。このパウロの手紙の時代、まだキリスト教は受け入れられず、諸外国の人々や白い目で見られ、支配者から取り締まられるようなものでした。

そんな現実の中で、それでもイエス・キリストの言葉と十字架の出来事を拠り所として生きる事は困難だったでありましょう。イエスの希望の言葉通りに生きようとする事が困難な中、社会はちっともよくならない中、世代は変わり元気だった先輩クリスチャンが衰える中、自分も思った通りに動けなくなる中、落胆し諦めそうになる。「やっぱり無理なのかな」なんて。今まで自分の希望だった言葉がなんだかみすぼらしく思えてきてしまう。体だけではなく、心も立ち止まってしまいそうになる。

でも、そもそもイエス様の十字架ってそういうものじゃないでしょうか。絶望の中にある人に希望を語り、悲しみの中にある人に慰めを語り、共に生きようとされたイエスだったけれども、世の中はそれを拒否し、支配者や指導者、そして群衆までもが、そのイエスの歩みを十字架に打ち付けることによって止まらせた。そんなの無理だよ、そんなのは理想だよ、幻想だよって。

けれども、その十字架にこそ希望があります。なぜなら、こうありたいという希望やこう生きたいという願いにとどかない現実や、思ったように動かない衰えゆく私たちの体を抱える中で落胆しそうになる私たちの心を誰よりも十字架に打ち付けられたイエスは知っているからです。そしてイエスの言葉は、その打ち付けられた肉体を超え、これ以上進めないと思えるような現実を超えて私たちに希望の言葉として語り掛けるからです。
(牧師:田中伊策)

「日々新たにされて」コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16節