「最後の敵はプライド」マルコ6:14-29

イエスが十字架にかけられた時、そこを通りかかった人々は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15:29-30)と言ったと書かれています。「自分で自分を救ってみろ」と言っているのです。今の言葉で言うと「自己責任論」です。溺れている人に「自分で自分を助けなさい」と言うような愚かな言葉です。私たちは他者から助けてもらったり、救ってもらったりしなければならない存在なのです。それなのに私たちはそのように出来ないのです。その原因の一つがプライドです。恥ずかしくて「助けて!」と言えない。一生懸命に自分で作り上げてきた自分の姿を壊すようで、今後人からどう思われているか気になって「助けて」と言えない。そんなうちに、私たちの体も心も沈み込んでゆく。

「自分で自分を救ってみろ」というのはイエスを他人事に思うからです。そうではなく、イエスは他者を救ったからこそ十字架で死なれたのです。この「他者」は「他人」ではなく「私」です。だから教会で信仰に入る事を「救われる」というのです。だから教会では「私を救うために十字架にかかられた」とか「私の罪と共にイエスは十字架にかかった」とか「私の罪がイエスを十字架につけた」とかいうのです。

けれどもこのプライドというやつはやっかいで、何度でもむくむくと膨れ上がってしまいます。救われたはずの自分がいつの間にか真理を自分で掴み取ったような気になって人に自慢したり、立派なクリスチャン像を作り上げて弱みを見せられなかったり。自分で演じている自分、人から期待されている自分から自由にされて(救われて)信仰に入ったのに、そこでもまた作り上げようとしています。人はつくづく救われない、とがっかりしてしまいます。それでもその救われないような「私」を神は愛してくださっています。だからここから何度でも救ってもらいましょう。自分で自分を救うことは出来ないのですから。(牧師:田中伊策)

「最後の敵はプライド」マルコによる福音書6章14-29節