「新しい土台の上に」マルコ9:2―13

主の祈りの中に「私たちの負い目を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という祈りがあります。この祈りの言葉が「私たち」ではなく「私」だったら、つまり「私の負い目を赦してください。私も自分に負い目のある人を赦しましたように」だったら、私はこの言葉を祈ることは出来ないでしょう。いくらイエス様が「このように祈れ」と言われても、私は祈れません。

何故なら私は「自分に負い目のある人」「自分に危害を加える人」「自分にいじわるする人」「自分を無視する人」「自分をバカにする人」を簡単には赦せない人間だ、って知っているからです。多分だからなのです、「私たち」って祈れ、とイエス様が言われたのは。「一緒に生きるんだ、一緒に礼拝するんだ。一緒に神様を見上げるんだ。そうしたら、赦せないあなたのために執り成してくれる人がいる。あなたの代わりに赦してくれている人がいる。

もし、誰も許せなくても、私が赦す。何しろ、あなたがたの交わりの真ん中には私がいるから。あなたが私を見失っても、私があなたを見失わないから。『私たち』って祈るその真ん中で、先頭で私が祈っている、そして赦している。だから、ほかの人を赦せなくても、赦してください、って祈っていいんだ」とイエス様は言って下さっているのです。

私たちはイエス様から赦されている。そして、教会の交わりの中で赦されている。清く正しく、みたいな自分を高めるようなしかも不確かでいつ転げてしまうか分からない土台ではなく、イエス様の愛と赦しという変わらない確かな土台の上で、赦されながら赦しながら、共に礼拝しながら歩んでゆきたいと思います。(牧師・田中伊策)

「新しい土台の上に」マルコによる福音書9章2―13節