「破れの先にある赦し」マルコ10:1-12

朝日新聞の一面には鷲田清一さんが見つけた言葉とそれについてのコメントを載せた「折々のことば」という欄があります。2017年2月3日(金)にはこんな言葉と文章が掲載されていました。

『畏れると恐れるとのちがいを若い人は知っていない。(遠藤周作)
若い人というより時代の問題なのだと思う。「恐れる」とは、強大な威力を前にして怯え、縮こまること。「畏れる」とは、自分をはるかに凌駕する存在を目の当たりにして震撼し、おののくこと。人々はいつ頃からか、自分を超えたものがなす審判に身をさらすことを拒むようになった。が、そのことで自らに厳しい要求を課すこともなくなった、作家の「勇気ある言葉」から。』2017・2・3

キリスト教ではよく「赦し」という言葉が出てきます。特に言われるのは「あなたの罪を赦すためにイエス様は十字架にかかられました」という言葉。この言葉にあるように「赦し」と「罪」とはセットです。つまり「罪」とか「弱さ」があって初めて「赦し」があるのです。ここで上記の「畏れ」とつながって来るのですが、「自分を超えたものがなす審判に身をさらす」事をした者、つまりその審判によって罪や弱さが露わにされ、そしてその罪や弱さを認めた者が初めて赦される(赦しに気づく)のです。

イエスは時に厳しい事を言います。『妻を離婚して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離婚して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる』(マルコ10:12)。こんな言葉があるからキリスト教の中でも離婚の禁止を主張するグループがある訳ですが、むしろ、今の行き詰まり(もう一緒に歩めない事)を認め、「自分を超えた者の審判に身をさら」し、神の赦しの中で新しく歩みだすんだ、って言っておられるのだと思います。こんなプライベートの中にも神様の光を当ててゆくことが求められているのだと思うのです。(牧師・田中伊策)

「破れの先にある赦し」マルコによる福音書10章1-12節