「起きていられるのなら...」マタイ24:42ー44

神の国(イエスさまがもう一度来てくれる時)も、いつ、どこに、どんな形でやってくるのかわかりません。イエスさまは、いつくるかわからない神さまの出来事を泥棒がやってくる譬えで語られます。神さまと泥棒は、まったくかけ離れた存在です。この話を聞いていた人たちは、神さま?泥棒?何だろう?と思ったにちがいありません。急に泥棒がやってくるように、きっと、神の国は、わたしたちのいつもの生活の真っ最中に急に来るということをイエスさまは言いたかったのかもしれません。

神の国は、いつ来るかわからないからこそ、いつ来てもよいように、「目を覚まして」おく必要があるのかもしれません。でも、私たちは、24時間365日、「目を覚まし」続けることはできません。眠らないと生きてはいけないのです。目を覚ましてないさいとイエスさまはおっしゃいますが、弟子たちだって、居眠りをしてしまうのですから、私たちはどれだけ頑張っても眠たくなってしまうのです。私たちは、イエスさまの言葉に忠実であろうとしても、その言葉をどうしても守れないときもあるのです。そんな弱いわたしたちに、イエスさまは、『忠実であろうとしても、どうしてもできないことがあるのだということを「わきまえて」いなさい』と教えてくださいます。

イエスさまは、「ず~っと起きておくことはできないことはわかっているよ。だから、自分の内にある弱さを認めることが大切だよ」と語り掛けてくださいます。弱い私たちが、いつも神さまに向き合い続けることができるために、イエスさまはわたしたちと共にいてくださるのです。そして、励ましてくださっています。イエスさまと一緒の歩みは、毎日の生活の中で神さまを感じる歩みでしょう。神の国がいつ来るかわからないからこそ、イエスさまとの歩みは、私たちにとって必要なものでありましょう。そして、イエスさまと歩むからこそ、「あ、これが神の国かなぁ~」と気付くことができるのです。

(広木愛神学生・長住バプテスト教会)

「起きていられるのなら...」マタイによる福音書24章42-44節