「世界は愛されている」ヨハネ3:16-21

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(16節)という言葉は、聖書の言葉の中で最も有名な言葉の一つです。しかしこの言葉をそのまま受け取るならこの「愛」は重た過ぎます。「お与えになった」という言葉は、「(神が)世を愛するための罪の身代わり(にした)」という意味があるからです。それは例えば私が何か過ちを犯した際に、「私はあなたの過ちを赦すために私の独り息子を身代わりとして有罪にしましたのであなたはもう大丈夫です」と言われているようなものです。もし、私がそう言われたら「やったー!ありがとう!」と無邪気に思えません。「あなたの息子さんに申し訳ありません」と言うでしょうし、もしかしたら「結構です!」と言うかも知れません。それくらい重い言葉です。

しかし、この「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は、その独り子であるイエス自身が語った言葉として聖書(新共同訳)では記されています。イエス自身が「神がどれだけこの世を愛しているかを示すために私はいるのだ」と語っている言葉であり、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とは「私は、世を愛された神からその愛を示すように遣わされた。この神の愛を信じることで社会にも自分に絶望することなく、希望をもって生きる力を得るように」と言う意味なのです。

悩みがあり、悲しみがあり、弱さがあり、病があり、疑いがあり、裏切りがあり、憎しみがあり、犯罪があり、死があり、…そんな世の中に私がいます。こんな愛される価値なんて無いような世の中や私を、それでも神は愛されます。そしてイエスは「この愛を信じることで今を生きて行ける、絶望を希望に変えることが出来る。そのために私は愛し、そのために語り、行い、生き、そして十字架に向かう」と語られるのです。(牧師:田中伊策)

「世界は愛されている」ヨハネによる福音書3章16-21節