「風が自由なら…」ヨハネ3:1-15

この聖書の箇所には「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(4節)という言葉があります。それはイエスが「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われたからです。さらに、イエスは5節でもう一度言います「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「新たに生まれる」→「水と霊とによって生まれる」、「神の国を見る」→「神の国に入る」と言い直しています。新しく生まれるとはイエスに従うということであり、神の国を見るとは信じて一歩踏み出す事なのです。

踏み出さなければ見えない景色があります。未来とはそういうものです。「未来」というのは「未だ来ていない」ということです。この世の現実に飲み込まれて流されて行くのか、それともその未来に向かって自分から一歩踏み出してゆくのか、それが問われているのです。

「新たに生まれる」これは私達バプテスト教会にとってとても大切な言葉です。私たちバプテストが使う讃美歌は「新生讃美歌」、これは正に「新しく生まれる」とか「新しい命に生きる」ということです。そして、バプテストが行う洗礼の方法は大きな水槽(バプテストリーと言いますけど)に体ごと沈み、そして起き上がる、罪の自分が死んで、主と共に新しい命に生きる、ということを象徴しています。新しく生まれる、ということです。新しく生きる、ということは私たちにとってとても大事な事柄なのです。

「風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)とあります。この「風」と「霊」とは原典では同じ言葉(プネウマ)という言葉が使われています。風は自由です。神の働きも自由です。その風に押し出されて、私達も未来にむかって自由に進みだす。昨日とは違う今日を生き、今日とは違う明日にむかって進むのです。それが新しく生まれる、新しく生きる、ということです。(牧師:田中伊策)

「風が自由なら…」ヨハネによる福音書3章1-15節