「そこで私を知るだろう」 出エジプト3:7-14

「そこで私を知るだろう」 出エジプト記3章7-14節

「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト記3:14)

私達は「あなたのお名前は?」と尋ねられたら、ちゃんと自分の名前を答えるでしょう。「鈴木○○と申します」とか「佐藤○と言います」とか「山本○○○です」とか。ところが神は、その名を尋ねられて「…?」と思うような返事をしています。それが、「わたしはある。わたしはあるという者だ。」です。

神はエジプトで奴隷だったイスラエル人を救おうと思い、モーセという人物にその働きへと促すのですがモーセは言います、「わたしは何者でしょう?私が行かなくてはならないのですか?」。すると神は「私は必ずあなたと共にいる!」と答えられます。けれどもモーセはまた「もし同胞から『あなたを遣わした神の名は何というのじゃ?』と聞かれたらどうしましょうか」と言って暗に断ります。そこで神の返された答えが「わたしは…」でした。

モーセは最初から断る理由を探しています。示された先で起こる事柄を予想して「これは私(モーセ)には無理」「これは私(モーセ)には出来ない」そう思っているからです。でも、神は「お前(モーセ)には出来る!」なんて一言も言っていません。神は「私(神)は必ずあなた(モーセ)と共にいる」と言っています。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」も同じです。この言葉は原語では元々「未来形」の言葉です。未来とはこれから起こる事柄について語るものです。言い直せば「わたしはいるだろう、それがわたしだ。」、そしてそれは「踏み出して御覧よ。そこであなたは私をさらに深く知るだろう」という意味です。名は体を顕す。

「私がそれを成し遂げられるのか?」私達はいつもその問いを大切にします。そして立ち止まります。何故なら未来は見えないからです。でも本当に大切にしなければならない問いは「そこに神はおられるか?」です。そして「神は共におられる」という答えと共に一歩進み出す事を神様は求めておられます。未来は見えない、でも神は共におられます。そしてその一歩を踏み出す時、私達はさらに深く神を知るのです。その促しに応えて進む神学生の方々の学びとこれからの働きのために祈り捧げましょう。 (牧師:田中伊策)