「出来る時には気づかない」 使徒9:1-6

「出来る時には気づかない」 使徒言行録9章1-6節

パウロという人は旧約聖書の戒めを一生懸命に守る人でした。そして人にも守らせようとし、それが守れない人、守らない人にはとても厳しい人でした。きっと、パウロは何でもよく出来る人だったのでしょう。そうでなくては山のようにある旧約聖書の律法をちゃんと守れるはずがありません。

でも、出来るが故の落とし穴もあります。自分が基準になってしまう事です。「私は一生懸命しているのにこの人はしていない」「私は頑張っているのにこの人は諦めている」「私は正しく、この人は間違っている」。出来ない人の痛みも、その人が違う事をしている理由も考えようとしません。

「やればできる」それが出来る人の傲慢であることに彼は気づきません。 ある時パウロは、ただ愛するために生き、そして十字架にかかって死んだイエスという人物の影響を受けた人々の事を知ります。「あいつらは『律法は愛だ』などと言う。それは出来ない言い訳だ。そんな不届きな連中は罰せねばならない」そう思い、次々に捕まえては罰を与えてゆきました。

にもかかわらず、彼らは愛するということを止めようとしないのです。だからまたパウロは追いかけまわすのです。そんな中、パウロは旅の途中でまぶしい光の中、イエスに会うのです。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべき事が知らされる」。その言葉に視力を失ったパウロは従います。町に入ると、「イエスから行きなさいと言われたから」という理由で彼の元にやって来たアナニアという人物から目を癒してもらいます。

サウロは「この厳しい律法を守る事こそが大事だ」と思い、「愛なんて律法を守れない者の言い訳だ」と思っていましたが、自分が迫害してきたキリスト教徒から介抱された事を通して、愛する事がどれだけ難しく、尊い事かを知ります。パウロの完敗です。そしてイエスとの出会いによって本当に大切なものを知ったパウロは、キリスト教徒となり、キリストを伝える者となります。 人間出来るうちは、なかなか出来る自分の価値を捨てられません。そしてもっと大きな価値があることに気づくことが出来ません。大切に握っているその手の中のものよりも、もっと尊く、もっと大切なものを気づくことが出来たらもっと嬉しい人生を送られるはずです。

「最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13) (牧師:田中伊策)