「父のイメージ」 マタイ5:43-48

「父のイメージ」 マタイによる福音書5章43-48節

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」 (マタイ5:45)

これはイエス様が神様について語っている箇所です。イエス様は神様を「父」と呼んでいます。他の聖書の箇所を見てみると、イエス様が祈る際に「アッバ」(マルコ13:36)と呼びかけています。「アッバ」とは年端のいかない子どもが父親に呼びかける言葉です。無防備な幼子が100%の信頼をもって父に呼びかけるように神様に対して呼びかけています。きっとこの箇所でもそんな思いで「父」と語っているのでしょう。でも、どうしてイエス様は「神様」と言わずにあえて「父」とか「天の父」と呼びかけたのでしょう。

それも、100%の信頼をもって無防備に呼びかける相手に「父」と呼びかけるのでしょう。 「父」というと、大体「一家の大黒柱」「主人」「威厳」「強さ」「怖さ」、そんなイメージを持つのではないかと思います。でも、そのイメージというのは、いつの間にか社会が作り上げてしまった偶像にすぎません。イエスが「父」を語る時、そこにはいつもその社会から自由な男性の姿があります。「放蕩息子の譬え」(ルカ15:11)なんてたくさんの財産を持っていますが、子に対して無力な父親で、ボロボロになって帰ってくる息子を見つけて、走って迎えに行き、そして抱きしめて「死んでいたのに生き返った」と手放しで喜んでいます。「人の目何て関係ない。私はお前が大事なんだ」とただ愛する事しかできない一人の人間としての姿が「父」の姿です。

そこには、イエス様自身の父(ヨセフ)の姿が重なっているのではないか、と私は思っています。ヨセフはイエス様の誕生と幼少期に出て来るだけで、他には出て来ません。イエス様は子どもの頃に亡くなったというのが通説です。イエス様の誕生の出来事でヨセフは、結婚前に聖霊によって身ごもったマリアと一度は離縁しようとしました(マタイ1:19)。姦淫をした、と疑われても仕方ないような事だったからです。しかし、彼はマリアと結婚する事を決意します。まるごとのマリアを受け入れたのです。まるごととは勿論、腹の中にいるイエス様も含めてです。彼は社会の目からも、戒めからも自由になり、ただ愛する事を決意したのです。そんな父、ヨセフの愛の中で育ったからこそ、イエス様は神様を「父」と「アッバ」呼んだのです。 (牧師:田中伊策)