「風と調べと新しい命」 ヨハネ3:1-15

「風と調べと新しい命」 ヨハネによる福音書3章1-15節

イエス様の歩みや言葉、そして十字架と復活が書かれています福音書には時々「律法学者」とか「ファリサイ人」とかいう名前が出て参ります。この律法学者とかファリサイ人という人々は、イエス様のおられたイスラエルでは一目置かれる存在でした。律法学者は聖書の教えに精通し、それを教えている先生達でした。そしてファリサイ人は、その戒めを特に厳格に守る人々です。

「ファリサイ」という言葉の語源はよく分かっていないのですが、「分離する」という意味の言葉から来ているという説があります。汚れに染まりやすい大衆からの分離なのか、それとも罪や汚れそのものからの分離か、それだけ厳格に律法を守る人々でした。それもそのはず、彼らは旧約聖書の戒めについて「神が律法をユダヤ民族に与えた以上、それは遵守可能なはずである」と考えていたのです。守ろうと思えば守れるのだ、守れないのはその人が弱いからか、堕落しているからだ、と思っていたのです。そして自ら厳格に律法を守っていたのです。

ニコデモもファリサイ派のユダヤ人で議員までしていました。そんな彼がイエス様の所にゆきます。イエス様は彼の悩みを見抜いて言います、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」。ニコデモの悩みとはファリサイ派の人々が「遵守可能」と語っていた律法の限界だったと思われます。律法通りに生きられない事への苛立ちと後悔、悩み、それを打ち明けようとしたら、「新しく生まれなければ…」とイエス様が言われます。

それでニコデモは「年を取った者が、どうして生まれる事が出来るでしょう」と言います。「生まれ変われるものならそうしたいよ。でもそんな事できないだろ」と食ってかかるのです。けれどもイエス様は、自分の努力(律法遵守)によってではなく、神によってであることを語ります。自分で進む事をやめ、風を受けて進む舟のように歩むのです。 (牧師:田中伊策)